【配信公演観劇しました!】池上show劇場【PREMIUM】Dプログラム
こんにちは、おちらしさんスタッフです。
9月に上演された「池上show劇場【DELUXE】」に続き、11月に上演されたばかりのこちらの公演も早くも配信が開始されました。
今回の【PREMIUM】では、【DELUXE】B・Cプログラムと同じく、近現代の日本文学作品を原作に劇団俳優陣によるひとり芝居が連なる構成。山の手事情社アトリエの小空間をシンプルに用い、各作品30分ほどの密度の高い短編群に向かい合う時間が、配信映像として映像・音声ともにクリアに捉えられています。
今回は短編4本を扱ったDプログラムを鑑賞しました。
『桜の樹の下には』『Kの昇天』
原作:梶井基次郎
出演:高島領也
桜の姿のあまりの美しさに不安と憂鬱を覚えるうち、それは樹の下に「屍体が埋まっている」からだと着想し、そこから湧き上がる惨たらしくも活力に満ちた死と生のイメージを「お前」に語りかける「俺」。
療養中に海岸で知り合ったK君の溺死を「あなた」から手紙で知らされ、月夜の彼との出会い、彼の行動、彼の抱いていた感覚を回想し、やがてK君の最期をも想像する「私」。
梶井基次郎の2本の短編『桜の樹の下には』『Kの昇天』はいずれも固有名詞が廃され、「俺」「私」が聞き手に向かって語りかける形式を取る作品です。
上演では冒頭、肺結核のため31歳で亡くなった作者・梶井基次郎についての解説が挟まれます。そして彼がその人生で意識させられたであろう「死」への感覚に思いを巡らせ、これらの短編を「生命への希求」「死の中から見出した希望の物語」として立ち上げる試みがなされていました。
前半分が明るく、後ろ半分が暗いゆったりとした衣装。天と地、影と光、さまざまな相反するイメージを含んだ姿はまた、ふたつの作品に通底する、背中合わせに結び合わされた「死」と「生」のありかたを連想させます。生で受ければたじろぐような圧力をもった響きの語り。語りに寄り添うのみならず、ある種のダンスのように日常の動きから離れ、ねじれて脈動する身体。「俺」や「私」、聞き手の透明な「お前」や「あなた」、そしてそれらのさらに外側、かれらが触れて想像している「自然」が、重みをもったこの語りと身体からひたひたと浮かび上がってきます。櫻の樹、川辺、ウスバカゲロウ、海と波、月光。梶井基次郎の外界への鋭敏な感覚と、それを受け取る自己の内面への洞察が渾然一体となった果てに訪れる静謐な瞬間は、抗いがたい死の気配に満ちながらも、たしかに生命の光を備えていたと感じました。
『虔十公園林』
原作:宮沢賢治
出演:中川佐織
周りから馬鹿と笑われている、知的障害を持つ虔十(けんじゅう)。彼と、彼がある日思い立って作り上げた杉の林をめぐって起こる出来事を描いた、宮沢賢治による短編です。
この上演では他作品に比べると登場人物が多く、人物が現れるごとに声も姿勢も鮮烈に切り替わっていく俳優の身体の力強さにまず耳目を奪われます。虔十の吐く息やちぢめた腕、兄の静かなまなざしと仕草、平二のゆがんだ表情、若い博士の震える誠実な声。
「池上show劇場」でよく用いられる演出として、役柄とナレーションの共存があります。俳優が、声ではナレーションにあたる部分を落ち着いた台詞回しで発しながらも、身体はその文が描写する人物を手足の先から表情筋に至るまで体現する手法です。三人称と一人称、解説する側とされる側、と、ひとりの俳優に情報が多層的に降り積もるさまは、演劇、それもひとり芝居の形式でなければなかなか触れる機会の少ない情景ではないでしょうか。『虔十公園林』では、前述の登場人物の数もあいまって、この手法がもたらす豊かな印象が際立ちます。
虔十の自然への感性、行うべきと信じた行いを精いっぱいやりとげる姿。終盤、言葉を切り、目を見張り、”少し足りない”と思っていた虔十の成し遂げたものの大きさに感じ入る博士の姿に、計り知れない運命への畏れ、ものごとの価値・意義を手前勝手に測ることへの戒めが込められ、胸を打たれます。
花巻のことばで音として聞く台詞では、「虔十」が「けんじ」と近しい発音になることにも気付かされます。今回の上演にはもうひとつの賢治作品が短く挿入されていますが、これにより、『虔十公園林』に彼が込めたであろう「本当のさいわい」を希求する精神が、賢治作品の通奏低音として奏でられるように耳に響きました。
『刺青』
原作:谷崎潤一郎
出演:川村 岳
その技術と絵柄の見事さで名を馳せる彫り師・清吉が、「己の理想の身体に魂を彫り込みたい」というひそかに抱き続けた願いをある娘との偶然の出会いにより叶えようとする、谷崎潤一郎の短編です。
彫られている相手の苦悶の声に愉悦を覚えるサディズム、美しい皮膚・肉体へのフェティシズム。最初期の作でありながらすでに、谷崎作品の特色であるほの暗い妖しさが満ち満ちているこの短編は、これまでにも多くのメディアミックスがなされています。今回、30分のひとり芝居の形となることで見えてくるのは、きわめて閉じた世界で繰り広げられる物事の、それゆえに息詰まるほど濃縮された美の気配でした。
闇に溶け込むような黒い衣装の俳優と、対照的に白くほのかに照明を照り返す長椅子。細く柔らかな、甘いような声で話す清吉。長椅子は人体、肌、清吉のキャンバスに見立てられ、針を差し込む清吉の手の先で生々しい感触と水気をまとうかのようです。
中盤からの見どころのひとつは、清吉と彼が目をつけた娘との緊張感あふれる関係性でしょうか。じっくりとした動作のひとつひとつ、言葉のひとつひとつから積み上げられる、本性を暴く側と暴かれる側とに分かれた激しいやりとり、その末に抗いようのないひとつの結末に向けて突き進む二人。そうしてついに己の魂を注ぎ込み/捧げきった清吉と、人を統べる魔性・帝王のような存在として再誕を遂げる娘。ふたりの力関係が一挙に変貌するドラマティックさと一種のカタルシスは、ひとりの人間が裏表のように演じ分けることにより、すべてが奇妙な必然であったとまで感じさせるような強烈さを帯びていました。ラストシーン、それまでと異なる色の光で照らされる娘の背は、物語のはじまりと変わらぬ黒い衣装で皮膚のひとつも見えないままでありながら、そこに美しくも禍々しい清吉の最高傑作を幻視せずにはいられません。
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