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愛ある者たち(人々編②)

今回は、私が出会った愛のある人たちを紹介していきます。

前回、変わった者たちというテーマで(人々編)を書かいたので宜しければ↓



愛のカタチ

愛情深く人懐っこいバングラデシュの人は、男同士だろうと手を繋いだり抱き合ったりする。

日本では馴染みのない光景だが、ここバングラデシュでは若者からおじさんまで幅広い年代で見かける。

友達になると距離感が近くなる人が多い。私も何回か手を繋いだことがあるが、ゴツゴツした手には慣れないものだ。最初に目撃した頃は、目を疑っていたが日常に慣れてくると珍しくない光景になってくる。

ここの人たちは、親、恋人、兄弟、友人に対して愛を実にストレートに表現する。毎日のように大切な人と電話でやり取りをしている。日本人の感覚からするとしつこく感じると思う。

赤ん坊と老人

船で移動中に、たまたま知り合ったベンガル人と色々な話をしている時に、話題が家族の話になった時のことだ。

結婚した後、どのように暮らしていくのか話していると「両親はどうするのか?」と聞かれた。両親が高齢になったら、老人ホームに入れる人も少なくないと言う話をしていると、

自分が何もできない赤ん坊の頃は、排泄・食事などの世話をしてもらったのに、両親が何も出来なくなったきたら他人の手に預けるというのは、ちょっと違うのではなはないか。

と言い、話を変えてしまった。

私は、赤ん坊と違い、両親は大人だから体も大きいし自我もあるのでまた別の話だと思ったが、その気持ちは大切にしたいと思った。今も正直、自分の生活で一杯で両親の老後まで考えが及んでないが、気持ちには寄り添っていきたい。

助け合いの精神

道で知らない人が困っているいたら、躊躇なく自然に手を差し伸べるのがバングラデシュ人の良いところだ。インフラが整ってなかったり、日本よりも不便なことが圧倒的に多いので、助け合いで成り立っている。

帰り道に乗り物がつかまらない場所にある小学校に行く時は、乗り物が見つからず、よくヒッチハイクをしていた。

大体の人がすぐに乗せてくれて、困ってるんだから助けるのは当たり前だろと見返りを求めてこなかった。お金はないが、助け合いの心がある。

日本だと無闇に知らない人には関わらない方がいいと、他人と関わる国民性ではない。少し寂しい気もするが、逆を言えばとても干渉されるということなので、ほどよいバランスで他人とも関わりをもちたい。

その時、私は動かなかった。

村を去る前の日に、村の親友プロションジットの家へ行きご飯を食べることになった。

どんな料理が出てくるか楽しみにしていたら、鶏肉1かけらと卵のカレースープとご飯だった。私のカレーには卵が付いていたが、プロションジットのには付いていなかった。


プロションジットの分の卵を私が食べているんだと思い、卵を2つに割って半分渡した。

食べ終わると、両親はご飯に塩をかけて食べていた。その姿を見て、何とも言えない気持ちになった。


ご飯食べる前に父親の店でチャイを飲みながら、店に商品が少なかったので訳を尋ねると「今年は、悪天候でコメがほとんどダメになってしまったから、商品も買えなくて店に商品が少ないんだよ」と言った。

続けて、おじさんは「6000円くらいあれば商品を入れられるんだが」と言っていたが、私は何もしなかった。毎日行く店であり、親友の家であり、お世話になっていたのにもかかわらずら行動出来なかった。

それに引き換え、自分たちの分を割いてでも息子と客人にあげられる両親のその姿勢に頭が下がる。結局は、私は自分がかわいいかったのだろう。今はすぐ行動できるように心掛けてる。

バングラデシュの人たちの愛に触れて、愛の素晴らしさを知った。愛情は、人を弱くしたり強くしたりしながら人を育てていく。

まさに愛に包まれた国である。
愛しきバングラデシュ

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