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天井の孤独 ~パソコン中毒者の手記~

6月上旬、パソコンが壊れた。
それまで平日は平均4時間、休日は10時間ぐらいパソコンをしていた。
でも面倒だしお金もないし、修理はまだしていない(できない)。

振り返れば、15年以上はそんな生活だった。
社会人になってもほぼパソコン。受験期もネットゲームをしていて家族からかなり怒られた。夜中に起きてプレイしていた。

パソコンが壊れてから、僕はかつてない孤独と向き合っていた。
古い壊れかけのノートパソコンがあるものの、古すぎるので動画を1つみていても止まってしまう。液晶も一部壊れて見えないし、キーボードも最近水をぶちまけて壊れた。だからカメラの写真や動画を取り込んだりたまにピアノを弾くぐらいで、まともに使えない(重すぎて使う気がしない)。

パソコンが壊れる前のかつての僕の生活は、
仕事から帰り、パソコンの電源を付けてデスクでコンビニ弁当を食べながら、配信や動画を4~5つ同時に視聴する。飽きたら音楽や配信を聴きながらゲームやピアノをする。たまに自分も配信をする。どうしようもなく眠くなったら布団に入る。
と、こんな感じだった。パソコン以外何もしていない。
それが、急にパソコンが壊れ、いなくなってしまった。

僕は虚ろであった。
仕事から帰り、散らかった部屋に入る。
体はデスクに向かわない。配信を見ながらデスクで弁当を食べられなくなったから、コンビニの駐車場で食べて帰るようになった。
1Lのお茶のペットボトルだけを部屋に置いて、
布団に入り、スマホで配信か動画、ドラマを観る。
パソコンが壊れてから、5年ぶりぐらいにドラマを観るようになった。
僕の部屋には親からもらったTVがあるが、1度しかつけたことが無い。

観るのに疲れたら、仰向けになって天井を見つめる。
天井には孤独が広がっていた。僕は今何をしたいのだろう。
パソコンがあったら、配信を4つも5つも同時視聴しながら、ツイッターのTLやnoteの記事を見ながら、youtubeで音楽の動画を漁りながら、いろんなゲームをしたりピアノを弾くことができた。それができるように去年20万のパソコンを買った。いろんな情報や刺激で脳を満たすことができた。あらゆることを考えずにいられた。

天井を見ていると、”天井を見ている自分”が見えてくる。
これは何者で、なぜ、なんのために生きているのか。今何がしたいのか。
必然的にそういった問いと向き合うことになる。これが、天井の孤独である。

僕は人生の繋ぎの時間、すべてパソコンをしていたのだろう。
学校や仕事から帰って、寝るまでの間。
休みの日、ご飯を食べるまでの間。
僕は友人が数人しかいないし、会うのもシーズンに1回程度だから、友人と会うことは滅多にない。

僕は物事に飽きやすいが、熱中しやすいらしい。
大抵の物事はすぐ飽きてしまうのだが、ピアノとゲーム、この2つは例外だった。

ピアノについては、弾き始めて10年は経ったが、始めたのは大人になってからだった。いろんな音楽を聴いたり演奏動画を見たりして自分もマネをしようと思ったところが始まりだった。習うのは苦手だし楽譜も読めないので、ただひたすら動画を見てマネをするだけで10年も経った。ミスだらけの下手くそな演奏だが、縁があり、知り合いを通じボランティアでピアノを弾きに行くこともあった。孤独な独学の、孤独学ピアノが人生で主張をし始めている。

ゲームに関しての最も古い記憶は、5歳ぐらいの頃の夏休み、兄弟がプレイするドラクエかFFを深夜まで横で見続けていたことである。
小学校以降は、FC、SFC、PS、GBなどでいろんなゲームをやっていた。
僕がゲーム好きと知って親戚が色んなゲームをくれたから、世代じゃないゲームもかなりやった。9割以上はソロプレイだった。
高学年になると、ネットゲームを始めた。ネットゲームは10種類以上やってきたが、どれも最初は同級生と始めるのに、気づいたら自分以外はもうプレイしなくなっている。そして独りでサービス終了まで続け、違うゲームを始めてもまたそのループである。僕が一番上の階級に行ったことを伝えると友人たちはまだやってたのかと言う。中学生の頃に国内でサービス終了したネットゲームを追い、アメリカや韓国サーバーに行ったのも良い思い出である。I should go to bed というとok...good nightとさよならのエモートをしてくれたアメリカ人、横浜に住んでたことがあるよとローマ字で教えてくれた深夜に長時間チャットした韓国人たちのことを今でも覚えている。
大人になっても変わらない。波はあるが、ネットゲームは僕の生活の多くを占めていた。僕は自分をコントロールできず、加減ができない。

僕は、自分が何をしたいのかよくわからなかったのだろう。
もっと言えば、なんのために生きているのか、考えることを辞めていた。
だから天井の孤独が語り掛けてくると、僕は脳をフル回転せざるを得ない。
6月から7月にかけ、本を20冊近く急に買ったり、仕事が終わってから3時間ぐらいドライブしたり、帽子を買ったり、花や植物をたくさん見たり、深夜に探険に出掛けたり、ドラマを観たり、気づくと僕はやったことのないことにどんどん取り組んでいた。
何かを変え、未知を知ることが、天井の孤独に返答をするための、僕がなぜ生きているか再び考えるための、何かのヒントになると思った。

生きている正解としての意味や理由などなく、人間が各々、意味を見出すものを生きる意味と規定して生きているだけなのだと言っていたのは大学の頃の僕である。あれから僕の中で何がかわっただろう。

さまざまな出逢い、別れがあり、変化があった。
自分が何を好み、愛しているのか、少しずつ分かってきたものもある。
最近わかったのは、僕は餃子が好きだということ。あと、オムライスと、味噌汁と漬物。

今日は休みだったので、行ったことのない古い弁当屋さんに行った。

「お兄ちゃん背でかいね。185ある?」
「いやそんなにはないですよ このお弁当安いですね」
「うちには高いもんはないよ全部安い」
「お店は何時から営業されてるんですか」
「9時からだよ でも仕事は5時から」
「そんな早くからやってるんですかすごいですね」
「そんぐらいからやらんとこんなにできんだろ」
親父さんは去りながらそう言った。
弁当の豆とひじきの煮物がおいしかった。

本当は生きてる間にやりたいことがまだたくさんある気がする。
それを焦ったり、ゆっくり立ち止まりながら
日々、天井と打ち合わせて考え、感じていくしかないのだろう。

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