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【翻訳記事】命を衰弱させる官僚主義的生活の真実

デヴィッド・グレーバーはロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで教鞭を執る人類学教授であり、いくつものわらじを履く人だ。彼はもちろん学者である──それも、リスペクトされる類の。彼はまた、著述家であり、活動家であり、政治的には無政府主義者アナーキストだ。しかし、彼のもっともユニークな特徴はこちらかもしれない。すなわち、知識人というものがごく稀になったこの時代において、グレーバーは本物の知識人であるという点だ。

『負債論:貨幣と暴力の5000年』にてグレーバーは、文明の黎明から現在に至るまでの歴史で負債が果たしてきた役割について概説する野心的な大作を証明してみせた。『負債論』が発刊されてからというもの、グレーバーは”ウォール街を占拠せよ”運動での役割が最もよく知られている。とはいえ彼は根本的なところでは作家、思想家であり、人生において最も大きく最も扱いにくいアイデアの一部に取り組もうとしている。その点でいうと、彼の最新作である『官僚制のユートピア:テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』は、彼のそうしたあり方の証左である。

先日、サロン紙とグレーバーはこの書籍と官僚主義的現象について電話越しで話し合った。この対話では、左派が官僚主義に対してもっと十分な批判をしないことは左派にとって失敗であるとグレーバーが考える理由や、どのようにして官僚制は根深い心理的な需要を得られるのか、そしてなぜ官僚制は我々を”馬鹿”にしているように感じさせ、我々を”馬鹿”みたいに行動させるのかについても触れている。なお、このインタビューは読みやすさと長さのため編集されており、以下に記載される。

──これほどの時間をかけて官僚制について書こうと思った理由はなんですか?

実は、以前にその手のエッセイを二つほど書いていたんです。そこで気付いたのは、官僚制は私が取り組んでいるどのトピックにおいても常に現れ続けるテーマの一つだということです。それに、官僚制について書かれた特に興味深い本というのはなかったんです。私の著書の一部は、私の学問上の仕事と政治上の仕事両方に由来するものであり──そのどちらも官僚制というテーマに行き当たっていて、それについて読める本を持っていなかったのです(読めたらいいのにと思う本を自分が書くということはしばしばあることですね)。

時間が経つにつれ、官僚制もまた政治的に重要なのだと分かってきました。官僚制について我々が語る言説と官僚制の政治的問題は60年代には左翼にとっての大問題だったのに、今や右翼のものになってしまっているという事実──これが導いた政治的な結末は悲惨なものだと思います。

──どのようにして、そうなってしまったのでしょうか?

ひとつには、左翼が生活の官僚主義化に取りかかったからというものがあります。これは自由についての話ですね。左翼の主流派──今となっては伝統的な意味での左翼ではないんですが──が、市場と官僚制のコンビネーションを本当に受け入れてしまったんです。このコンビネーションというのは、資本主義と官僚制の最悪の側面をかけあわせたものといっていいです。

本当は誰もそんなもの好きじゃありません。これは信条を絶えず汚し続ける類のもので、単体では誰も根本的に思いつきもしなければ施策として推し進めたりもしない政策の闇鍋を生み出してしまいます。ブレアとかオバマといった輩に皆が投票しているというまさにその事実が、左翼的思想の魅力を示す永続的な力を示しているのです。それがひどい政策だからこそ、右翼側は大衆的な反抗心による票を全て獲得できるというわけです。

──官僚主義と資本主義の双方の最悪の側面をかけあわせたものといえば、真っ先に思いつくのはオバマケアです。これは良い例といえるのではないでしょうか?

ええ、そのとおりです。オバマケアが公営なのか私企業なのか、我々には判然としません。オバマケアの一部は政府に取り締まられた利食いといえますし、医療保険は望むと望まざるとに関わらず利潤追求型の事業になってしまいました。そうして、オバマケアは全く不必要に複雑化した官僚制の階層レイヤーを生み出しているのです。

──それを聞くと、あなたが”リベラリズムの鉄則”と呼ぶ概念のことを思い出しますね。リベラリズムの鉄則とその重要性について少し聞かせてもらえますか?

政府は消え失せ、契約に基づく市場関係がそれに取って代わるというリベラルな幻想が19世紀にはあったんですね。政府はそれ自体が、最終的に滅び去る封建社会の遺物にすぎないという考えが。実際には、それと正反対のことが起こりました。政府はますます肥大化し、官僚もますます増加しています。自由市場が拡大すればするほど官僚も増えてしまったというわけです。

私はその反例となるものを探してみました。市場改革を行った上で、官僚の総数を増やさずにすんだところはないかと……一つも見つかりませんでしたね。官僚はいつも増え続けていました。レーガン政権下でその数を増していたのです。

──自由市場政策が官僚を増やすという考えは、少なくともほとんどのアメリカ人にとってはかなり直感に反しています。レッセ・フェールなすに任せよ的な政策がなぜ官僚を増やすというケースに陥ってしまったのでしょうか?

理由の一つとしては、我々が市場と呼ぶものは実のところ市場ではないからです。

まず、市場とはあるべくしてあるものだという考えを私たちは持っています。19世紀に交わされた議論にこのようなものがあります。”市場との関係が封建制度に忍び寄り、ついにそれを転覆せしめた。市場は人間の自由をごく自然に表現するものになりつつある。市場はそれ自体で調整されるのであるからして、それは徐々に他のすべてに取って代わり、自由な社会をもたらすであろう”……リバタリアンは今もこう考えています。

さて、歴史上で実際起こったことを見てみると、これはまるで正しくありません。自己調整された市場というのは、基本的に政府の介入によって作られていました。それは政治的な施策なのです。このように、物事の成り行きについて我々が前提としていることのいくつかは、端的に間違っています。たとえば、歴史的にいうと、他に何かしらすべがあれば人は賃金労働をやらないものです。では、従順な労働力を得るためには?土地から弾き出した人々にこちらのやってほしい仕事を確実に遂行してもらうための警察や組織を作らなければなりません。……これが、市場が生み出される原初の様子です。

一般的にいって、我々は市場関係を当然のものと捉えています。けれど、経済学者がいう”あるべき”行動を人々に取らせるには、巨大な制度構造が必要になります。例として、消費者市場がどのように動いているのかを考えてみましょう。この市場は、純粋な競争によって動いていると考えられます。誰も、ルールを守る以外の道徳的な結びつきを持ちません。その一方で、他者を出し抜くためにはなんでもするべきだとされます──単純に盗みを働いたり人を撃ったりしようとはしませんが。

歴史的にいえば、これは全くばかげています。他人のことを全く気にしないのであれば、人のものを盗んでもいいわけじゃないですか。ですが人間社会の多くが歴史上、自らの敵と交渉してきました──暴力や詐欺や窃盗には手を出すことなく。実のところ、このような不可欠な行動を人々は他者へと促しているのです。明らかに、こんなこと起こりそうにありませんよね。こんなやり方が可能なのは、非常に厳しく執行される警察権力を作り上げられているときだけです。これは例の一つに過ぎません。

──自由市場政策の影響で官僚主義的な状態が容赦なく増長しているのを明らかにしたところで、それで我々がどんな迷惑を被るんでしょうか?たしかに官僚主義は鬱陶しいかもしれませんが、それ以上に大きな問題があると?

官僚制は人間の想像力を破壊する方法の一つだと、私は本気で考えています。人を馬鹿に変えるものであるとも。はじめて官僚主義に直面したとき、私にとって本当に印象的だったのはまさにそれだったんです──自分が馬鹿になったと思ったんです!私は空欄への記入を間違えていて、なにかしらの学位のある人間であればきっとしないような明白なミスを犯していたんです。なのでずっと「でも間違ってるんですって!」と言われ続けました。おろおろして、生活力のない馬鹿になったような気分でいるという経験は、官僚制の統治下に欠かせない生活のぎこちなさとイコールなのです。

──しかしあなたの著書では、官僚主義には、漠然としているにせよ、一種の魅力があるとも書かれています。これについてはいかがでしょうか?

官僚主義が魅力的に感じるのは、それがまるで機械のようだからです。他人のことを気にかける必要もなければ、いちいち熟慮しなくてはいけない仕事もない……ただボタンを押すだけで、なにもかも出来上がっているというわけです。店に行っても金を渡すだけでよくて、なぜそれが欲しいかとかは説明しなくてもいい。これは、目的と手段の完全な分離といえます。

もっと深い部分ではどうでしょう……。どんなルールがあるか理解できる世界という幻想には、強烈な魅力があります。私が著書を『官僚制のユートピア』と名付けたのはこれが理由ですね。『官僚制のユートピア』というフレーズは私が作った新語ですが、実際にそれが指しているのはゲームのことです。なぜ私たちはゲームを楽しむのでしょうか?その理由の一つは、生活においてゲームは、ルールを完全に把握できる唯一の状況であり、唯一の経験だからです。

生活にルールはつきものですが、たいてい明文化されていません。ルールとは何かについて誰もが微妙に異なった考えを持っていて、曖昧なところがあり、どことなく複雑で、そうして人は結局いつもルールを破ってしまうものです。人生とはルールを把握しようとし続ける終わりなきゲームなのですが、誰もそのことをきちんと理解していません。その一方で、皆がルールを正しく理解し、それに従い、またルールに従う者が勝つという想像上の状況が、官僚主義のもとでは──時と場所を限定することで──実現できます。これって、現実生活ではすごく貴重ですよね。

さて、我々が考えられる幻想あるいは自由のかたちは二つあります。一つは遊び、一つはゲームに基づくものです。遊びは純粋な創造性に似ています。なにしろ、ルールそのものを作り出すのですから。究極的な権力のようなものです。しかし、純粋な創造性はある意味で恐ろしくもあります。その一方で、純粋にルールに縛られたゲームは息苦しくて退屈です。なので、人間存在のあらゆる側面で働くこの二大原則は、常に一種の緊張状態にあるというわけです。官僚主義はこの二つの衝動の片方に付け込んで、可能な限り利用しているのです。

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