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ムービーに挟まった200メートルを巡って - 『ゼノブレイド3』

ムービーが終わったらムービーが始まる

盆休みから引き続き、『ゼノブレイド3』をプレイしている。途中で『Cult of the Lamb』や『ローラードローム』を挟んでいたから、ようやくメインディッシュに戻ってきたような心地だ。

プレイ当初から変わらず、『ゼノブレイド3』はムービーが多い。そろそろ中盤まで来た頃かと思うが、ムービー後に暗転を挟んでまたムービーが始まるのにもすっかり慣れてしまった。慣れたからといって、別に快適になるわけではないが。

しかしまあ、ムービーが終わってたった 200メートルほど進んだだけで別のムービーが始まったのには流石に閉口した。不可解すぎる。この200メートルの意図が分からない。ひとまとめのムービーにしてしまっていいじゃないか……。混乱と同時に、ゲーム内のムービーを巡る記憶が呼び起こされてきた。

10年以上前に発売された『メタルギアソリッド4』。このゲームはムービーが多すぎるとしばしば批判の的となってきた。事実、MGS4のカットシーンは総尺約9時間もあってクソ長いし、最新作『デス・ストランディング』のそれも相当長かった。ムービーが長くなければ”A Hideo Kojima Game”じゃないなどと揶揄されることもあるほどだ。 

けれど、ゼノブレ3に比べればどれもマシに感じる。なぜか?

ムービーゲーの大御所と比べて

まず、至極単純に映像のセンスが違う。違いすぎる。小島秀夫のゲームを遊んだことがあるなら、彼が自分の肩書に”監督”を付けているのは決して大袈裟でもなければイタい自己陶酔でもないと分かるはずだ。彼の作るカットシーンではくだらなくて無味乾燥な肩越しショットの連発など絶対にしないし、特殊なカメラワークを用いても映像の連続性は巧妙に保たれている。要するに、どのムービーも高品質で、見ていてまるで退屈しない。

そこへ行くと、ゼノブレ3のムービーはどうもクオリティにバラつきが見える。カメラワークから台詞回しまで素晴らしくキマっているものと、恐ろしく説明的でつまらないものの差が激しいのだ。例えば、ボスと死闘を繰り広げるアクションシーンではカメラも躍動して目を楽しませてくれる一方で、悪役がものすごく悪役っぽいダサいセリフをぶつぶつやりながら人を刺すシーンをほとんど同じ構図で4回も繰り返したりする。同じ人間がディレクションしたとは思えない体たらくだ。

また、本作のカットシーンは、滑らかでダイナミックに動くムービーと、会話が吹き出しで表示されて汎用モーションが使いまわされる、いわば”準ムービー”とでもいうべきものの二つに大別されるが、この二つの使い分けの基準がいまいちわからない。キャラクターが結構大事なことを言っていて声優も迫真の演技をしているところが、何故か準ムービーになっていたりする。感性の違いと開発リソースの問題と言えばそれまでだが……。

センスの違いは残酷で、如何ともしがたいところがある。天下の小島秀夫作品と比べるとなおさらだ。ゼノブレイド3もキメるところはしっかりキメているのだから、退屈なムービーなどわざわざ作らずに探索中のダイアローグなどで流してしまっていいのではないか。そう思ってしまうのは、俺にはゼノブレイドシリーズに対する愛着がないからだろうか。

ゲームプレイとの相性

次に、ゲームプレイの性質の違いだ。説明するまでもないがMGSはステルスゲームかくれんぼであり、敵に見つかるだけで不利になるどころかゲームオーバーの危機だ。デスストでもステルス要素は健在で、B.T.という超常存在が出没する地帯を歩くときは文字通り息を潜めないといけなかったりする。小島秀夫の作るゲームでは、概して積極的な戦闘が推奨されない。戦うべきではないという縛り要素こそが緊張感を高めるのだ。そのため、挿入されるムービーが休憩時間としても作用し、ゲームプレイでの緊張とムービーでの弛緩が心地よいテンポを形成する。

その一方で、ゼノブレイド3はMMO風の戦闘システムを採用したオープンワールドRPGであり、ずいぶんゆったりプレイできる。フィールド上の敵はさほど好戦的ではないし、戦闘を仕掛けられてもアッサリ振り切れる。ストレスがない。これに拍車をかけるのが非常に優秀なオートバトル機能で、一度使うともう戻れない。麻薬的だ。こうなるとプレイヤーはほとんどリスクを負わず、移動だけしていればよくなってしまうのだ。

フィールドをダラダラ歩き回って探索し、絡んできた敵をオートバトルでシバき回すのをボンヤリ眺める。進んでいった先で流れるムービーを、またボンヤリ眺める。考えることがなくて本当に楽だが、腑に落ちない。こういったことを繰り返していると、禅めいた問いがぽつぽつと頭をよぎる。

“ゲームを遊ぶとは何か?”
“ゲームとは何か?”
“遊ぶとは何か?”
“何かとは何か?”

……そして、不意になにもかも虚しくなる。

これは俺の主義信条といってもいいが、ゲームはプレイヤーに常に何かを考えさせ続けなければならない。それはFPSのようにリアルタイムで動的なゲームでも、SLGのようにターンベースで静的なゲームでも同じだ。あるときはエイムの置き方、あるときはMPの管理、あるときはスマッシュが届く距離。こうしたリスクリターンを考えること自体が面白さに繋がる。考えなくても進められるとき、そこに遊びは存在しない。

画面の情報量に対して虚無感がすごい

ゼノブレイド3の緊張感のないゲームプレイは、ムービーと相互作用を起こさず、良いテンポを生みにくい。とにかく漫然としている。オープンワールドRPGの性質上、この問題は半ば避けられないのかもしれない。もし工夫できるとしたら、それはやはりムービーの配分だろう。少なくとも、ムービーとムービーの間の200メートルをわざわざ操作させる必要はなかったはずだ。

けれど、嫌いじゃない

こんなタラレバの愚痴をこねまわしておきながら、しかし、俺はゼノブレイド3を悪いゲームだとは思っていない。ただムービーの使い方が下手で、プレイしていてダレてくるだけだ。そんなゲームいくらでもあるし、だからといってつまらなくなるわけでもない。俺がここで書いたことはぶっちゃけ粗捜しレベルの話だ。

ゼノブレイド3のムービー以外の部分、とりわけストーリーと世界観、登場人物についてはどれもJRPG的魅力に満ちている。進めるごとに一つ謎が解け、また別の謎が現れるので興味が尽きない。主人公たちが世界の秘密を追いかけるという本筋がシンプルなので、サブクエを挟んでも話がとっ散らからないのもいい。

とにかく人間ができている主人公

歪な世界、若くナイーブな主人公、世界を裏で操る黒幕。コテコテだけれど、それがいい。昨年『テイルズオブアライズ』を遊んだときも思ったことだが、こういうゼロ年代的JRPGのリバイバルが来ているのかもしれない。考えてみたら、パーティの中で主人公が一番穏やかで物分かりがいいというのもTOAとの共通点だ。一時期のJRPGは割とどのキャラクターもホルモン過多な感じだった気がするけれど、そこらへんは令和にうまくチューニングしているのだろうか。

また別のゲームを間に挟むかもしれないが、俺がゼノブレイド3を完全に投げ出すことはないと思う。生粋のアクションゲーマー、しかもシリーズ未プレイの俺でさえエンディングまで付き合ってやろうと思えるのだから、ゼノブレイド3はやっぱりなかなか“やる”ゲームだ。

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