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今こそ読みたい鴨長明…極楽浄土さえ捨てさせる食べ物の恨み

『発心集』の説話から。
とある僧の家に大きな橘の木があったそうです。柑橘類、たとえば、みかんをイメージすればいいですかね。実がたくさんなり、とても美味しかったので、主の僧が「これは最高の木だ」と大切にしていました。

かの家の隣りに、年たかき尼一人住みけり。重病を受けて、床に臥して、日ごろ物も食はず、湯水なんども、はかばかしく呑み入れぬほどになれりけるが、この橘を見て、「かれを食はばや」といひければ、すなはち、隣りへ人をやりて、「かくなん」といはせたりけれど、情なくかたく惜しみて、一つもおこせず。

意訳:僧の家の隣に高齢の尼が一人住んでいた。重病になり、寝たままで、何日も物も食べられない。湯水もろくに喉を通らないほどになったが、隣家の橘を見て、「あれを食べたい」と口にした。すぐに隣へ人をよこして、食べたく思っていることを伝えさせたけれど、僧は非情にもかたくなに物惜しみをして、一つも届けてあげなかった。

この病人のいはく、「いとやすからず、心憂きことかな。病すでに責めて、命、今日、明日にあり。たとひよく喰ふとも、二つ三つにや過ぐべき。それほどの物を惜しみて、我が願ひをかなはせぬは、口惜しきわざなり。我、極楽に生れんことを願ひつれど、今にいたりては、かの橘を食みつくす虫とならんと。その憤りを遂げずは、浄土に生るることを得じ」といひて死ぬ。

意訳:病気の尼は「本当に悔しく、つらいことだよ。病気ですでに体がきつくて、命は今日か明日にも尽きる。たとえ、橘の実をたくさん食べたとしても二つか三つをこえることなどあるはずない。それくらいの物を惜しんで、私の願いを叶えさせないのは、残念なことだ。私は極楽往生を願っていたけれど、こんなことになった今は、あの橘を喰い尽くす虫になろうと願うことにする。この怒りがなくならないうちは、浄土に生まれることはできないだろう」と言って死んでしまった。

隣りの僧、このことを知らずして日ごろ過ぎけるほどに、この橘の落ちたるを取りて喰はんとて、皮をむきて見るに、橘の袋ごとに、白き虫の五、六分ばかりなるあり。驚きて、「いづれもかかるなんめりや」と思ひて見れば、そこらの橘、さながら同じやうになんありける。年を追ひてかくのみありければ、「何にかはせん」とて、果てにはその木を切り捨ててげり。

意訳:隣の僧は、このことを知らずに過ごしていたが、橘の実が落ちているのを取って、食べようと皮をむいて見ると、果肉を包んでいる袋ごとに2センチ弱の白い虫が入っている。驚いて、「どれもこんな風であるのだろうか?」と思って見ると、たくさんの実が同じようになっていた。年が経ってもこのような状態でしかなかったので、「こんな木があって何になるのか!」と、ついにその木を切り捨ててしまった。

願力といひながら、さしも多くの虫となりけんことは、いみじき不思議なり。かれ、悪事を思ふは、下りさまのことなれば、かなひやすくは侍るにこそ。

意訳:願う力が強かったとはいえ、こんなに多くの虫になってしまったとは……じつに不思議なことだ。悪事を願うのは坂道を転げ落ちるようなことなので、叶いやすいということのようです。

人心の闇の深さが気になるとき、私は『発心集』を読みたくなります。


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