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【映画随筆#1】プリティ・ウーマン

今回は、ゲイリー・マーシャル監督の ”Pretty Woman”を鑑賞し、感じたことを記事にしていきます。(注)本稿はネタバレを含みます。

作品名:プリティ・ウーマン
公開日:1990年12月7日(日本)
出演:リチャード・ギア、ジュリア・ロバーツ等

私は映画に対して素人なので、映像表現やせりふの言い回し、俳優女優がどうこうとかにはあまり触れず、ストーリーからふと湧き上がる、持論に近しいものを述べていくつもりです。
私がプリティ・ウーマンを看破して感じたことを言うならば、「非合理的なものが人生を輝かせる」という持論が強化されたということになります。これは私が最近感じていることではありましたが、この映画でさらにその傾向があるなと感じてしまいました。
もちろんフィクションであり、アメリカの映画ですから、ハッピーエンド調が世間的に望まれていることを受けてこのようなプロットになったのかもしれません。しかし、一般化するのは暴力的かもしれませんが、何かと現実に生じている現象に近しい事象を演じていたようにも思えました。少なくとも私には。

さて、私の持論の「非合理的なものが人生を輝かせる」を掘り下げるとします。一瞥しただけでは直観に反しているようにも聞こえるこの文章ですが、実際多くの人が経験していることに準えた文言であるように私は思うのです。
具体的に考えましょう。例えば子を授かること。あれって合理的か非合理的かで言ったら、私は迷わず非合理的と答えます。新たな命を生み育てることで、経済的コストがかかります。その生命の面倒を見ることで生まれる時間的コストも多大なものでしょう。さらに、母体は痛みを伴ってお産を迎えることからも、精神的コストがかかるとも言えるでしょう。なぜそんなコストを支払ってまで人間はこのような営為を反復するのでしょうか。それが本能であるから?そういう意見もあるでしょうけど、最終的には自分たちの幸福のため、と私は考えます。自分の子供が存在するという感動。自分の名前を覚え、親と慕い、自分の保護のもとですくすくと育つ、愛しの我が子。どんな合理的選択や損をしない生き方にも及ばない多幸感があるからであると、私は推測します。
これはお産や育児に限ったことではないと思います。これは人生の指針として、間違っていないことであると感じます。なぜそれを言えるのかと問われれば、それは、賢い人ですら命を絶つことに対して抵抗を感じているからです。少し表現を変えれば、合理的選択を要求されている人たちですら、人生を手放していないからとも還元できると思います。いったい何を言いたいのか、それは、人生というものそれ自体、非合理的道のりであるという根本的な主張を前提にすると、理解できるかもしれません。損得勘定で考えれば、人生なんで損しか生まない気がしています。何かに本気になっても、上には上がいる。何かを極めようとするには、数多くの挫折が待っている。最善の選択をし続けたように見えて、運が強い奴の踏み台にしかなっていなかった場合もある。こんな人生を損得勘定という評価軸だけで進んでいったら、どこかで辞めたくなるものです。賢い人や自分と向き合ってきた人ほど、その本質には気づくと思います。
では、何が我々人生にすがらせているのか。それが”愛”やら”友情”やら”笑い”やら”賭け”やら。損得勘定の評価を超えた何かに、人間は光るものを見出すのでしょう。それは、あんなに頭の切れる男で、プロジェクトに多大な時間とコストを割いてきたエドワードが、ヴィヴィアンに影響を受け、買収ではなく協力という道を選んだこともその一つです。何も合理的な選択が、正解にはならないということを、社会的立場の大きく異なるフッカーの女性と過ごすことをきめるという非合理的な選択をしたことから学んだことともいえるでしょう。もしそれが一般化するならば、もはや彼にとっては非合理的な選択をすることが、一番幸福になるための合理的選択ともいえるのかもしれないのですが。

こんな感じで論点的な要素を考えて提示したいと思います。何か考えさせられる映画でもあれば、おススメ教えてください。


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