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【映画随筆#2.1】空白

今回は、𠮷田恵輔監督の ”空白”を鑑賞し、感じたことを記事にしていきます。(注)本稿はネタバレを含みます。

作品名:空白
公開日:2021年9月23日(日本)
出演:古田新太、松坂桃李等

記事を書き始めて2本目に閲覧する作品として「空白」を選んでしまいました。もはや記事のネタを見つけに映画見とるやんと思われても仕方ないとは思ってます。とはいえ、映画の予告編の時点で面白く、アマプラで400円しっかりと課金するほどの熱意があったので、大目に見ていただけるとありがたいです。
また、今作品では、感じたことが結構多かったため、三部構成になっています。今回は第一部として、両義性の面白さについて、記述していこうと思います。

「両義性」・・・一つの事柄が相反する二つの意味を持っていること。対立する二つの解釈が、その事柄についてともに成り立つこと。(デジタル大辞泉)
まさにこの映画のテーマであり、また多くの魅力的作品の根幹をなす部分でもあります。このように、人によって意見が分かれる事案という観点で言えば、かの有名な倫理の「トロッコ問題」が挙げられると思います。今回の記事では特にトロッコ問題について、深掘りしていきます。
トロッコ問題の概要を、私の記憶する範囲で説明すると、暴走したトロッコがあり、このままいくと、線路上で動けない状態にある5人の上を走ってしまいます。そんな中、自分は線路の分岐を操作するレバーの前に立ち、そのレバーを引くことで、5人が轢かれることを防ぐことができますが、代わりにその分岐の先にいる一人の方にトロッコを突っ込んでしまいます。あなたはレバーを引かずに見過ごすか、レバーを引いて、1人犠牲にする代わりに、5人を救うか、という倫理的ジレンマを問う問題となっています。
これは人によって意見が分かれ、どちらにも正義があるために、両義的な事案と呼んで差し支えないでしょう。そして両義的な問題の性質上、正解がないこともまた、困ったことでもあります。何が困ったかと言いますと、その場で回答を出すということになると、多数決の暴力によってきめられてしまう可能性があるということです。少しふわっとしすぎた想定ですが、例えば、学校やセミナーなどの場において、トロッコ問題を扱ったとしましょう。たとえいくら先生や講師の方が、”両義的”と言葉で宣ったとしても、生徒の9割が、「レバーを引かない」という選択をすることに同意する場合、「レバーを引く」という意見がいくら説得的であっても、”間違っている”ようにみえてしまうような状況を私は想定していたのです。つまりは両義性は実は環境に依存して答えが決まってくるというのが、困ったことであり、恐ろしいことでもあるということです。この作品では、両方の登場人物に対して不利な状況(「家が特定され、悪意あるチラシが貼られる、スーパーの利用者が激減する」)が現実としてありましたが、悪編集されたインタビューが放送される前ではそこまで世論はスーパーに批判的ではなかったイメージがありますし、同時に、古田新太が演じる役に至っても、漁師の弟子が味方についたり、娘を轢いた張本人及びその家族が同情以上の感情を抱いてくれたりと、明確な善悪構造になっていないことが分かります。つまるところその意見というものは、世界の見方によりますし、その人の立ち位置=環境にもよるというわけだと思っています。
さて、本題のトロッコ問題に戻りますが、私はこのレバーを引かない側の意見として散見される”レバーを引くことで、自分がその一人を殺すという判断を下したことになるから”という意見が、妙に日本人らしく、やや腑に落ちないところがあります。これ以降は私の正義の押し付けになるので、嫌な方はここで読むのをやめてください。正義の押し付けは怖いですよね。本作のスーパーのおばちゃんも、怖かったですから。人が最も残忍になるのは、自分が正しいと疑わないで行動するときであると、誰かしらが言っていた気がします。しかし、この、レバーを引かないこと=自分の意思で人を殺したくないという論理も、”人を殺すことを正当化する正義”になることを言及したいのです。これも具体的に考えましょう。例えば、旅行先について、議論しているグループを眺めているとしましょう。強引な一人が、「行先は、北海道にしよう!」と言い、それ以外のメンバーはそれに対して、黙っているという状況を想像してください。このメンバーは行き先が北海道であることに賛成しているのか、反対しているのか、考えているのかわからないと思います。ここで議論したい点としては、このグループはこの強引な一人だけが物事を決めているかどうかというものです。もちろん、そう見えるという人もいると思うのですが、個人的には、北海道に行くという決断は、このグループが総意で決めたことのように思います。
この具体例に対して、いや、そもそもこのグループの権力関係がよろしくなく、他のメンバーが何を言っても否定されることを理解しているから何も言えない状況になっているだけで、メンバーに責任があるかわからないとか、そもそも旅行モチベがない中で、行かなくてはいけない業務的な状況を考えると、強引なメンバー以前に、もっと背後の圧力に責任がある、みたいなメタ考察が行われるかもしれません。そういうのは好きなので、どんどん行ってほしいとは思いますが、私目線ですと、そのような、無言も強力な意思に見えて仕方がないのです。それが、迎合であれ、諦めであれ、従属であれ、保身であれ、全て自身の選択であり、全てが意志なのです。これが北海道に行こうではなく、誰かを殺そう、という意見であっても、グループとしての意見の構築のされ方は同じなのです。私は関わってないから、という意見が、未然に防ぐことができた殺しを実行に移させたとも考えられます。これを基に考えると、レバーを引かないというのは、自分の手を汚したくないという”意志”であり、5人死のうが自分とは関係ないという”主張”であり、そもそもトロッコが暴走する方が悪いとう”他責”なのです。これの善悪を問うわけではありませんし、5人を救う方が正しいとも全く思っていません。でも、いじめが起こっているのにもかかわらず、見て見ぬふりして、それが正義と語るのはナンセンスな気がしていますし、また同時に、レバーを引くということだけが意志を持っていると考えることも、少し違うように感じます。
実はトロッコ問題が有名なだけで、数値化できないものすべてが両義的な存在であると、私は信じています。絶対なんてものはないし、その意味で、正しいと感じているひとをけなしたいし落ち込んでいる人を慰めたいのです。傲慢な人に反省を促し、マイナス思考な人には肯定を与えたいのです。この映画も同じようなテーマで描かれていたのかもしれません。(スーパーのおばちゃんだけは割と報われてない気もしますが)
今回はアンビバレントなトロッコ問題について、その中でもサイレントマジョリティーのような無言の意見があることを示唆して、空白のテーマの持論を記述しました。悶々としたテーマでガラスを割りたくなった人もいるかもしれませんが、これからもエキセントリックな記事に挑戦したいと思います。第二部もこうご期待を。



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