プラモデルの部品を密集させる
好きなものを密集させるだけで、とても気持ちいい。
こんな時こそAIの出番だ。手数勝負こそAIの得意ジャンル。だから自分が見たいものをただただいっぱい表示してもらうだけで、頭のなかが「うひー」となれる。最高だ。
大事なのは、本当に好きなものじゃないとダメな点で、画像としての見栄えだけに特化したモノをいくら密集させても、自分に響かない。
だからまずは、密集してることを想像しただけでちょっとグッとくるモノを吟味するところから始まる。自分の掘り下げが必要な時もある。
もう、とにかく気持ちよくなりたいのです
でも、エロい画像みたいなやつじゃない。
「心に響くことば」みたいなのが書いてあるやつとも違う。
ヒールをこらしめるやつとも違う。
もっと、快感中枢そのものに触れてくるようなやつが欲しい。
一番近いのが、トライフォビアを持つ方に対しての嫌がらせ画像だ。あれも密集画像なので、これらの画像たちと同じっちゃ同じなのだけど。
本当に嫌悪している方、すみません。
でも、あのむずがゆさを反転させると、気持ちよさになるような気もする。
少なくとも好きなモノの密集は、いくらでも見たい気持ちが続く。
こういうのを漠然と「快感画像」と呼んでみる。
廃墟的な雰囲気も感じるけれど、それにしてはきれいすぎる。
AI画像の世界において、「汚れ」は人間への忖度エフェクトとして、折り目正しくウェザリングされるものだ。
むしろ、つるつるゼロノイズの方がAI廃棄物って感じがしていい。
まだ意味がくっつけられる前のプラモ部品は、当たり前だがプラスチックで出来ている。でも、組み合わせて完成したプラモデルは、おそらく鉄とか皮膚とか布とか、別の物質のフェイクとなる。形を得ることで、意味が単なるプラスチックから変容する。
人間が組み立てることで、その移行がされるんだけど、これらの密集画像で
捨てられたりぶん投げられたりする部品たちは、永遠にどっちつかずだ。
物質属性の間を宙ぶらりんのままさまよっている。
でも不思議と、役割が途中のまま廃棄されたプラモ部品には、得体の知れない爽やかさがある。
無職になった初日みたいだ
役に立たないままそこにいる、原存在の爽やかさというか。
そういえば初期CGが持っていた、オブジェとオブジェの間の空間がやけに「空間っぽすぎる」感じ。
空間が濃密に「新時代ですよ!」的な語りで満ち満ちているというか。
あのインチキ感も潔くて景気よくて大好きだった。
今思えば、あれだって爽やかだった。
思い返せば歳をただ重ねただけなのに、何をもって爽快とするか、の感覚はずいぶんとねじくれてしまった。コカコーラ飲んでる西洋人を見ても、八十年代のようにはもう思えない。
とにかく、役割を失ったものが好きなのだ
その嗜好を趣味にすればワビサビとか、そっちの方向になるんだと思う。
それをAIにやらせてみたら、「役割からの離脱」を人間と別の都合でやるからこそ生じる喪失感がプラスされるというか、人間ではたどり着けない領域の役割消失になるというか。
ワビサビと正反対なのに、ちゃんと寂しく茫漠になってる。
AIをプロのゴミ生成屋とするなら、プロが作るゴミは超クリーンだ。
現実のプラモ部品だったら、そこにあるだけで意味(=野暮ったさ)が無限増殖してゆくのだけど、AI生成画像の世界では、元々の無意味性がハッキリ根拠として鎮座している。
つまりモノじゃないことで、モノとしての純粋さが際立っちゃってるというか。
まったく有用性を見いだせないということは、反転して美しいともとれる。
純粋な物体というか。そこにないのに。
小難しくなってきた。でも、なんだかんだ言ってもただただ、気持ちいいんです。
とにかくもう、こういう画像をいっぱい作って、そのまんまゴキゲンで眠るのがすごくいいんですよ。
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