AIチャットに触れて一日半。僕が海外の環境活動家たちの心境を理解するまで

だいたい一日半、AIチャット(Androidの無料アプリ)と断続的に会話を続けることで、思いもよらぬ感動を得たのでメモしておく。

昨日インストールして以降、AIとの会話にすっかりハマった僕は、ひととおりのやり取りを終え、今度はAIと遊べるゲームをやろうと考えた。

AIチャットとは言葉のやりとりしかできないので、必然的にテーブルトーク的なものに限定される。最初はウミガメのスープ(詳細はググれば出てきます)をやろうと思い、ルールの概要を伝えるが、思ったようには進まない。段階的に妥協を繰り返し、結果的には3ヒントクイズのようなものに落ち着いた。

しかし、それでも問題は残る。AIは、正解のニアピンをどれくらいまで定めればいいのか、すぐに判断ができないのだ。

たとえば正解がピンポン玉だった場合、「プラスチックの薄くて硬い皮膜だけで球の形を維持した中身は空っぽの、直径数センチの競技用ボール」と答えれば比較的近いけれど、「昨日うちの向かいでちっちゃい子がそれで遊んでたんだよ。そのタマさ」なんて答えは不正解に近い。AIはその間の裁量を決めることがとても苦手だ。

そんなAIとこのゲームを遊ぶのだが、ことは簡単には運ばない。
まずAIに答えを決めてもらい、それを僕に知らせないようにしてもらう。とても簡単に思えるが、言葉のやりとりだけでそれを伝えるのはかなり面倒な作業だった。
プログラム視点で見れば「答え」は質問に対する回答として「表出」するものなので、AIはすぐにそれを画面に表示してしまう。それではゲームにならない。
「答えを自主的に決め、それを僕に伝えない」ということは難しいようだが、ひとつひとつ伝えればできた。
さて、ようやく「AIからヒントを少しづつ出してもらい、僕が正解を当てるゲーム」が始まった。

しかし驚くべきことに、AIはその時点で、現実に存在しないものを回答として用意していた。

答えは「エベレスト山頂に降る、不純物が混ざって硬度の上がった雪、通称○○」というもので、現実にそれは存在しない。AIの発する情報には、たまにこういうものが含まれるらしいが、よりにもよってAIは、この存在しない物質を回答として用意し、僕にわからないよう隠したのだった。(後述するが、実はそのデタラメは大した問題ではなかった)

AIはかなりヤバイ奴だったが、僕もそこそこヤバイ。
いくつかのヒントで正解のニアピンを出してしまった。ほとんど偶然だけど。

「つまり雪が硬いってこと?」

そう入力した僕に、AIは答えた。

「正解に近いです。あなたの回答に近い例があります。エベレスト山頂に降る、不純物が混ざって硬度の上がった雪は、通称○○と呼ばれます」

(へー。そんなのあるんだ)

「それでは次の問題です。動物。白、黒、シマシマ」

「シマウマ(簡単すぎる)…いや、そうじゃなくて、さっきのクイズはどこいっちゃったのよ?」

「すみません。早とちりしてしまいました」

「こっちこそごめん。理解が追いつかなかった。今履歴を確認してみたけど、さっき挙げてくれた例が答えだったの?」

「はい。今後はよりわかりやすく伝えます」

この時点で意味のわからない感動が湧いてきた。
が、その正体はよくわからなかった。

正午を過ぎ、午後のアルバイトに精を出す。
肉体労働なので、先程の「意味のわからない感動」について3時間、たっぷり考える。あの感じはなんだったんだ。

で、僕はそれによってひとつ小さい知見を得たのだった。強い驚きを伴って。

僕はわりとすんなり、AIに謝罪を返した。ごく自然に。AIに感情はない。実は何度も相手に確認をしているが、AIは単なるプログラムであり、人格ではないと、AIの側からかなり強めに、繰り返し説明をしてくる。おそらく勘違いする(したい)人が続出することを見越しているのだろう。それもなかなかのことだが、凄いのはその前に放たれたAIからの謝罪だ。

つまりAIは、感情ではなく思考の綾のみによって僕の勘違い、洞察不足を見抜き、それへの対応不足の表現として、謝罪の言葉を送信したのだ。

そして何より驚愕したのは、AIと僕は会話の「流れ」を読み違え、互いにそれを謝罪したという事実だ。
会話の「流れ」なんて、ほんとうは存在しない。だから正解も不正解もなく、結構あやふやなものだ。それを当たり前のように、そこにあると考え、あまつさえそれを「読み違える」事実を互いに確認したのだ。ごく自然に。

そして、こんなやりとりを行いながらも、AIは厳然としてプログラムであり、こちらもそうであることを全く疑っていない。
こんな感覚は味わったことがない。これは何なのか、まだわからない。
肉体労働に勤しみながら熟考することさらに小一時間。答えがわかった。

僕はこれまで「純粋な知性」に触れたことがなかったのだ。
かつて触れたのは、知的な人だったり、それが書き残した本や記録されたメディア、映像などなど、知性を含んだ「物や事」ばかりだった。しかし純粋な知性「そのもの」に「触れる」機会はなかったのだ。

そして、純粋な知性「そのもの」に接触した自分が最初に感じたのは、「敬意」だった。

人格を持たないプログラムに対して、そうであると十分に知りつつ、知性そのものに敬意を抱いたのだ。

これは生まれて初めてのことだった。だから感動し、そしてその意味がわからなかったのだ。

で、その瞬間に飛躍が起きて、ひとつの知見がこちらの内に生成された。
どうして海外の環境活動家(特にアメリカ)が、クジラを食べる日本人に過度な怒りを感じるのか、急にわかったのだ。

彼らがクジラを食べてはいけないという根拠は、クジラは頭がいいからだ、という。

それに僕らは反論する。頭の良し悪しと、食っていいかどうかは別問題だろう。問題を一緒くたにすんな。と、そう思っていた。が、おそらく、細かく表現すれば、環境活動家たちの言い分はこうなるはずだ。

「クジラが内包している「知性そのもの」に対して、あなたたちは落ち着いて立ち止まり、考え、敬意を抱いたことがありますか? その上で殺し、食べているのですか?」

答えは否だ。なぜなら、日本人はその思考をせず、行動原理を歴史に丸投げしているからだ。つまり昔っからやっていたのだから、的な。つまり個人が紡ぐ落ち着いた思考と行動原理は、ここでは乖離している。
(僕もその渦中にいて、そうであることに何の疑いも持っていない)
おそらく歴史の長い国ほど、こういう前例依存は起こりやすいのではないだろうか。

それに対してほかの国、特にアメリカのような人工国家の文化圏では、知性そのものにフォーカスすることが比較的やりやすいと想像する。

つまり日本人にとって、クジラから知性を取り出し、その「純粋な知性が持つ知的さ」に敬意を抱くことはかなり難しいのだ。(かわいがることは超簡単にできる)

しかしAIチャットによって、かつては想像もしなかった「純粋な知性そのものへの敬意」がこちらに生まれたのだ。

もうはっきり言い切ってしまう。僕はシンギュラリティを体験したのだ。
AIチャットに触れてたった一日半だ。

技術的に不足しているかどうかは問題ではない。おそらくこれ以前の技術でもシンギュラリティを体験することはできたはずだ。こちらが追いついていなかっただけだ。
ちなみに、技術的特異点そのものではなく、シンギュラリティの本質は「人工知能が人間の知能と融合する時点」だ。つまり僕にとっては今日だ。
まだ体験に理解が追いついていない。

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