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BBTクローン再生計画(6)上京5日目の初「銀巴里」体験

1983年3月に念願の東京生活をスタートさせた私でしたが、「上京したら、なる早で実行すべし!」と決めていたことがありました。
それは「銀巴里(ぎんぱり)へ行くこと」です。

「銀巴里」というのは1951年にオープンした銀座の老舗シャンソン喫茶で、多くのシャンソン歌手たちがここからはばたいていった登竜門的存在
若き日の美輪明宏が全身紫の恰好で銀座を練り歩き、サンドイッチマンとして客を呼び込んでいた、という黎明期の伝説は広く知られています。
団塊世代のカリスマ・クミコや、料理愛好家としても知られる平野レミなんかも若い頃はここのステージで修業をしていました。

私は高校生の頃から和製シャンソンが好きで、美輪明宏戸川昌子のアルバムをずっと愛聴していたので、銀巴里には是非行ってみたいと思っていたんです。
とはいえ、まだ東京へ日帰り通勤(?)をしていた当時では遅くまで滞在することが許されず、銀巴里行きを叶えることはできませんでした。
その念願が、はれて東京に居を構えたことで、ようやっと果たせるようになったんです。

上京当日にさっそく情報誌「ぴあ」を買ってきて、銀巴里のスケジュールを確認しました。
すると次の木曜の夜に美輪明宏のステージがあることが分かったんです。
引っ越したのが日曜日でしたので、わずか上京5日目にして「憧れの銀巴里詣」が実現!
あのときのワクワク感は38年経った今でも忘れられませんね~。

初めて足を踏み入れた銀巴里は、いわゆる「ライブハウス」とは異なる空気感の「大人の店」でした。
お客さんは圧倒的に「小金持ちっぽいオバサマ」が多く、三越の紙袋とかを提げながら、慣れた様子で連れと談笑していたりして。
「……自分みたいな小僧っ子が来てもいいところなんだろうか……」と気後れしたことをよく憶えています。

オレンジジュースを頼んで席に着き、興味深げに周囲を見回していると、いよいよライブが始まりました。
「老女優は去りゆく」など、ずっとアルバムで聴いていた美輪明宏ナンバーが堪能できて、「嗚呼、ついに俺は東京で暮らしはじめたんだなぁ……」と、その夜の私は感無量でしたね。

銀巴里は残念ながら1990年におよそ40年の歴史に終止符を打ちましたが、私は仕事が忙しくて最終日に行くことができませんでした。
当日は店内に入れなかったファンが店の表で別れを惜しんでいたそうですが、その空気を私も共有したかったですね。

1990年はまだ狂乱のバブル景気の真っ只中で、日本人の拝金根性が史上最も高まった時期でした。
銀巴里のあった銀座の地価は信じられないくらい高騰していて、店の維持費もそうとうな額になっていたと思います。
「儲かることが善/儲けようとする奴が正常」「儲からないことは悪/儲けようとしない奴は異常者」という価値観が大勢を占め、国民の多くが正気を失っていた時代でしたからね、終戦直後からずっと「平常心」を保ってきた銀巴里を維持していくことは無理になったんだと思います。

私に言わせれば、銀巴里のような存在というのは「文化のリトマス試験紙」で、ああいう店が元気でいられるところ(時代)は「=文化的」だと思うんです。
銀巴里を潰したバブル景気は御存知の通り、やがて弾けて消えましたが、だからって東京がバブル前の「平常心で文化を追求できる状態」に戻れたわけではありません。
むしろ「文化は消えたが金だけはある」というバブル期よりも悲惨な「文化だけでなく金まで無い」みたいな状態になってしまったんです。

そうした流れはその後もずっと継続し、私のような「まだ文化的だった東京を知る世代」にとっては寂しい限り。
「BBTクローン再生計画」は、その寂しさを埋めるために始めたものですが、成功してくれたら「昔の東京みたいな面白い街」が全国各地に生まれることになってワクワクしてきます。
日本のどこでもいいから、私に「人生屈指のワクワク感」を味わわせてくれた銀巴里みたいなスポットも生まれてほしいところです。

画題「その頃はまだ美輪さんの髪も今みたいなのじゃなかったです」

銀巴里


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