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【怠けるための努力】東京から離れる

東京で無茶な働き方が祟って「脳卒中」になって死にかけ、「これからはもうやみくもに頑張りたくない!」というか「世間から怠け者と呼ばれるようなユルユルな生き方をしたい!」と考えるに至った私。
けれども「ただ漠然と怠けるだけ」ではじきに経済破綻が訪れてしまい、「健全に怠け続ける」ことは不可能になります。
「死ぬまで怠け続ける」ためには「知恵を絞って生活上の無駄を極力省くための努力をする」ことが不可欠なんです。
こちらでは、そんな私が編み出した「怠けるための努力のしかた」を伝授していきますね。

まず最初に伝授する「怠けるための努力」の基本中の基本「東京から離れる」です。

飛び立つ

1983年に上京した私が最初に住んだのは、国鉄(当時はまだJRじゃなかった)中央線荻窪駅から徒歩5分くらいの木造アパートでしたが、家賃は確か2万3000円くらいだったと思います。
「だったと思います」と曖昧なのは、まだ学生で生活費は親が払ってくれてたから。
間取りは四畳半一間トイレは共同、半畳くらいの小さな流しが付いていました。

目の前がコインランドリーで、銭湯までは徒歩3分くらいだったので、全然不自由は無かったですね。
冬はさんさんと陽が差し込み、夏にはブラインドがめくれ上がるほど風が入ったんで、暖房も冷房もほぼ必要ナシの、超快適な部屋でした。

1987年に社会人になって住んだのは、JR山手線恵比寿駅から徒歩15分くらいの、やはり四畳半トイレ共同の部屋。
恵比寿駅はあまり近くなかったので、もっぱら徒歩10分くらい地下鉄日比谷線広尾駅を使ってました。
当時の恵比寿エリアはまだガーデンプレイスもなく、バブル期の地上げによって商店も半ば立ち退かされていたので(「地上げのせいで閉店します」と貼り紙されてた空き店舗もありました)、恵比寿のお隣である目黒駅の駅ビルによく買い物に行ってました。
ウチからだと、恵比寿駅に行くのと大差ない距離だったんですよ。

わが家は恵比寿駅前から続く坂道を上りきったところにあったんですが、逆側に下ると港区の白金エリアに行き着きます。
いまでこそ「シロガネーゼ」なんてスカした言葉もありますが、当時はまだ全然のどかで下町っぽい雰囲気で、私はそこにある銭湯へ、風呂桶かかえてサンダル穿きで通ってましたね。
現在は分かりませんが、当時の白金エリアには銭湯が結構あって、その日の気分によって行く店を変えてたりしてたんです。

恵比寿の部屋はアパートではなく、大家宅の半分を間貸ししている「下宿」だったので、家賃は勝手口をノックして手渡ししてました。
ここも家賃は確か荻窪と同じくらいだったと思います。

自分で払うようになったのにまだ曖昧なのは「電気・ガス・水道料金の頭割り分と規定家賃を合わせた額」を支払ってたから。
大家さんが算出した「店子全員分の光熱費を人数割りしたもの」を合わせた額が毎月請求されてきたので、納める額は毎月違うし、個人で公共料金の契約をしなくていいのです。
全部をひっくるめても確か2万6000円くらいなもので、しかも洗濯機共用のものが備え付けられてたのでコインランドリー代は不要。
だから荻窪時代よりも割安な感じでしたね。

恵比寿には1987年から1993年まで住みましたが、この6年間は私の人生で唯一の「冷蔵庫ナシ期」でした。
買うお金はあったんですが、冷蔵庫に充てられるコンセントがなかったんです。
なんせ四畳半一間ですからね、部屋のコンセントは「二口」のみで、諸々の家電によってすでに埋まっていました。
こう言うと「さぞ辛かったでしょう……」と同情されたりするんですが、あいにくと全然そんなことはなかったですね。
住まいの隣が「コンビニっぽい酒屋」だったんで、何か欲しいときはそのつど買いに行けましたんで。

看板猫

というわけで、1983年から1993年までの私は「月に2万数千円稼げればとりあえずホームレスになる心配はない生活」を送っていました。
後に「無茶な働き方をしないと破綻する生活」になった頃、「財布の中にはいつも小銭しかなかったけど、たかだか文庫本一冊買うのに本屋で1時間迷ったりもしてたけど、じつはあの頃が一番幸せだったんだよなぁ……」と何度思ったことか。

東京の土地勘のない方だと伝わりにくいと思いますが、お茶の水の学校に通ってた頃、「定期が切れた」のに「財布には70円しか入ってない」というピンチに陥ったことがありました。
類は友を呼ぶで、周囲には自分と同レベルのビンボー人しかいなかったので、金の無心もできず。
で、私が選んだ道は「歩いて帰る」でした。
とりあえず70円でキャラメルを買い、それで適宜カロリー補給をしながら線路沿いにえんえん荻窪まで向かった私。
思えばあれが、後にライフワークとなる「長距離ウォーキング」の最初でしたね。
慣れてなかったのでくたびれはしましたけど、不思議と「辛い」とは感じなかった。
むしろ「俺、いま青春(まだ「アオハル」なんて洒落た言い方は無かった)してんじゃ~ん!」という高揚感のほうが強かったのです。

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話が脱線しましたが、今の東京でかつての私のような暮しをするのは難しいでしょう。
激安部屋と呼ばれるようなアパートも皆無ではないでしょうが、仮にあったとしても風前の灯火いつまで住み続けられるかは定かではない。

私が住んでいた荻窪のアパート(四畳半が上階下階に10部屋ずつあった)も数年前ひさびさ見に行ったら「風呂付きの部屋が上階下階に2戸ずつ」というゆとりあるリッチな間取りにリノベーションされていました。
最近では学生でも「風呂ナシなんてありえな~い!」という風になりがちなんで、こうしないと借り手がつかなくなっていたんでしょうね。
ちなみに徒歩3分の銭湯は廃業してました。

今世紀に入ってからの東京は再開発熱が異常なまでに高まり、私好みの「趣のある古アパート」が次々と取り壊され、「どこにでもある単身者用マンション」に建て替えられていきました。
私が仕事場として借りてた木造アパート(小さな流しとトイレ付きの8帖+3帖で家賃4万6000円も、あとどれくらい残っていられるか分かりません。

のばら

もちろん昔の東京にだって高級マンションはあったし、「田園調布に家が建つ!」なんてサクセス志向をおちょくった漫才フレーズもありました。
しかし一方で「上昇志向に背を向け、あえて必要最低限しか稼がずに『自由時間の確保』を最優先する」という生き方も選べたし、そのバイブルとも言える『大東京ビンボー生活マニュアル』(前川つかさ 講談社)なんてマンガがヒット(第一巻は1987年2月~1989年6月で11刷!)したりしてた。

ビンボー

つまり「持つこと」と「持たないこと」が等価で、各人の自由意思で「選択できた」のです。

しかし収益性の低い「安アパート」がどんどん駆逐されていき、同面積で何倍もの家賃が取れる「単身者用マンション」に変わってしまうような世の中じゃ、昔のような「選択的ビンボーライフ」選択できなくなる。
恵比寿の部屋を探す時、私は駅前の不動産で「このあたりで一番安いアパートを見せてください」とオーダーし、あの下宿を紹介してもらいました。
おかげで、会社勤めを辞めて「俺はフリーライターだと言い張る無職」になった時でもさほど不安はなかったですね。
あったのは「最低限の収入でもオッケーな最底辺ライフは最高だぁぁぁ!」みたいな不思議な幸福論。

けれども今はそうはいかないでしょう。
「このあたりで一番安いアパートを見せてください」と不動産屋に頼んでも、たぶん紹介されるのは4万円台くらいの物件だと思います。
それ以下だと「色んな意味でワケあり」だったりするかもよ!?

私の言う「怠ける」とは、イコール「選択的ビンボーライフ」のことですから、それが選択不可となった現代の東京では成立しえないのです。
タイムマシンでもあって40年くらい前に戻れるんだったらそうしてもいいんですけどね、それはどう考えても無理なんで、もしも「本気で怠けたい」のならば「選択的ビンボーライフが選択可能な土地を自分で探して移る」しかないわけです。

私が脱東京を実行した直後コロナが襲来し、「東京はパンデミック時には日本一リスキーな都市」というシビアな現実が明らかになってしまいました。
もし私がタイミングを逸して、まだ東京に居残ってたとしたら、とてもじゃないけど「怠ける」どころの話じゃなかったでしょう。
絶妙なタイミングで私を「怠けられる場所」へ逃がしてくれた運命の神様はきっとすごく勤勉な方で、使命の遂行を「怠けてなかった」んでしょうね。

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