独り言のような文章だけ書いている。

ここに何か書き残しておこうと思い立つ時は、大抵なにかしらの意識が大きくシフトチェンジする時だと感じている。
「これはシフトの予兆だな」とワクワクしながら文字を打つのではなく、後になって振り返ると、あれは予兆だったんだなと気付く。

人は、自らの足跡を軌跡として残したい生き物なんだろうか。
影響力のある人になりたいとか、生きた証を残したいとか、そういった類いの願望が私には無いから、
必然的に辿った足跡を振り返ることもあまりしない。
振り返ってもクッキリとした足跡が無いから、振り返る意味もあまり無い気もする。
ただ生きたいように生きて、したくないことは極力やらない。
…そんな表現をすると、旅人のような人生であるかのように聞こえるけれど、そんなことも無い。
ただ今いる場所で、水が流れるように生きている。
これからもそう在りたいと思っている。
客観的に見ればテキトーな人生だろう。

そんな風に、形の留まらない流動的な私という人間が、一体何をどうシフトチェンジするのか。
意識のシフトが起こると、それ以前の感覚とは全く変わってしまう。
以前なら主観的に感じていたことを俯瞰して見るようになり、まるで自分とは別の人間のようにすら思える。
以前の自分は、記憶の中でこそ「自分」であると認識出来るものの、全く異なる意識で生きている。
「そういえば、私あんな行動取ったんだな」
「あの時はあの言葉しか思い浮かばなかったんだ」
「あんな感じ方、今はもうしていないな」

煌々と辺りを照らす力強い足跡は無い割に、
振り返れば発見がいくつもあるのも不思議。
シフトチェンジが起こったからこそ気付くことが出て来る。
こんなに流れるように、無心で生きている私でも
こんなに変化したんだな、と驚く。

本能的に感じているのかしら、
今からシフトチェンジするから今の心を書き残しておいた方が良いよ、と高次の自分に言われているのかもしれない。
そんな訳で、数ヶ月スパンで存在を忘れていたnoteに
唐突になにか書いておこうと感じた時は書き殴るようにしている。
直感がそうさせているのかもね。

ところで、このnoteの方向性がまるで定まらず
当初の構想とは掛け離れた場所になっている。
これもまた流動的な自分らしいのかもしれない。
やりたいこと、現在進行形でやっていることが増えている。
絵、文字、音楽、声…
とにかく表現が好きなんだとこの歳になって再実感している。
そのための大きな買い物もして、すごく楽しい。
改めて思うのは、私は本当に家にいれば全て完結してしまう人間だということ。
家から一歩も出ずに趣味を満喫出来る。
仕事で家を出る時、ちょっと悲しい。家が好き過ぎる。

形に残そう、足跡を残そうと思っていない行動も結局は足跡になる。
そう考えるとどう生きたって素晴らしいなと思うから、
やりたいことをなるべく多くやる生き方で在りたい。
飽きちゃっても良いし中途半端に終わっちゃっても良いから、
やりたいと感じる衝動を尊重して
これからも流動的に変化しながら生きたい。
飽きちゃっても中途半端に終わっちゃっても、
なんだかんだで最終的に一つにまとまる気がする。

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