堂本剛のことをずっと考えていた
先日、「マツコ会議」において、マツコデラックス(千葉県出身)と堂本剛(奈良県出身)が語り合う様子を見た。自分は島根県の出雲大社を参拝した次の日にその番組を島根のドーミーインのテレビで見た。2人の様子は神がかっていた。まさに「神回」であったと思う。
自分と同世代である、Kinki Kids、堂本光一、堂本剛の活躍は、目覚ましかった。当時話題になっていた人気ドラマに次々に出演し、彼らを知らない人はいないのでは、というような存在感があった。デビュー曲「硝子の少年」は作詞、松本隆、作曲・編曲:山下達郎。人気番組にどんどん出演し国民的な存在になってから、デビュー曲を出すまでにかなりの時間がかかっていた。
人気があるのに曲を出さない、というのは、ジャニーズの中ではおそらく珍しかった。とてつもない期待を背負いながらも、その期待に見事に応えていく、その存在感は圧倒的だった。兄弟ではないのに苗字が同じで、二人とも関西出身、それなのに正統派ジャニーズ、と言えるような2人。バラエティ番組でも親しみやすく、大物と呼ばれる人とも自然に渡り合う様子も印象的だった。今では、バラエティ番組や情報番組のMCをするジャニーズの方も沢山いるので、当たり前のようになっているが、当時のジャニーズのアイドル、という存在はもっと制約が多く、今とは全く違っていた。今では、テレビに出ている芸能人がそれほど「威張る」雰囲気はないが、それまでの芸能人、と言うのは非常に態度がLargeであったが、彼らはジャニーズ最前線にいながらにして、どこか腰が低く、その意味でも、それまでにないキャラクターの2人だった。
最初にKinki Kidsを知ったのは、地元の川沿いの断熱機能が全くない築何十年を越えた祖母の家で読んだ「中学一年生」。祖父母は他界してしまったが、自分が子供の頃、週末に家族で祖父母に会いにいくと、祖母が必ず毎月「中学一年生」を買っていてくれ、にこにこして、「はい」と渡してくれるのだった。インターネットもない時代、自分にとっての重要な情報源であった「中学一年生」を和室の部屋で隅から隅まで読んだ。当時のKinki Kidsはデビューしたばかり。屈託のない笑顔の写真を今でも覚えている。堂本剛は当時「ドラえもんのグッズ」にハマっている、とインタビューで語っていた。四次元ポケットをお腹の部分にデザインしたような、ポケットからドラえもんの手が出ているようなデザインのTシャツがあったら買いたい、というようなことを語っていたような記憶がある。
ジャニーズ最前線で活動するKinki Kidsだったが、ある時期を境に堂本剛の異端児感は際立ち、全く異なる路線に突き進んでいた。本当にやりたいことと、ジャニーズ事務所所属のアイドル、として求められることとの間で常に葛藤していたような様子は、まだデジタル放送ではなかったテレビからも、ありありと伝わってきた。お笑いに対する熱い思いも、自ら曲をプロデュースし、歌う、というのも、当時のジャニーズの王道からは大きく外れていた。
稀代の国民的人気アイドルである堂本剛と自分を重ねるのもあまりにも分不相応ではあるが、同世代の彼の葛藤は、自分が抱える苦しさと似ていると勝手に思っていた。自分は就職氷河期世代。自分よりも3年前くらいに卒業した先輩たちは氷河期、その後は超★氷河期、と言われ、自分の世代は超★超★氷河期、と言われていた。(この★は堂本剛のソロプロジェクト、ENDLICHERI☆ENDLICHERIにインスパイアされている)
それまで信じられてきた土台のようなものが、もはや、なく、そうは言ってもある程度のレールに乗らなければどこかへ進むこともできない。youtubeやtik tokなどを通じて個人でいろんな発信ができるような、ひろゆき氏が積極的に働きたくない人には働かないで生きる暮らしを勧めてくる、そんな今の時代とは違い、まずはレールに乗らなければ、という圧力はあるものの、そのレールの先には全く明るい展望が見られないことも薄々分かっていた。インディ・ジョーンズなどでしばしば見られるようなトロッコの先が崖になっているようなそんな感覚を人生に対して持っていた。
堂本剛は今年でデビュー20周年だという。この20年間の堂本剛の葛藤は、まさに「与えられたレールの上に乗ったもののそのレールの先に靄がかかって何も見えなくなった」ような世代の人々の葛藤そのものだった、と思う。時折、謎の髪型やちょび髭、丸眼鏡などをかけてテレビに登場する姿は明らかに異端過ぎた。テレビ画面からも伝わってくる彼の悩みぶりに、どこか不安にさせられつつも、「フリークス」を見るような、視聴者からするとその危うさが、どこか見てはいけないものを見るような、圧倒的な面白さを同時に併せ持っていた、そんな雰囲気があったと思う。
しかしテレビ番組の中で、堂本剛のこれまでの葛藤を、あれだけはっきりと語っていた番組は見たことがなかった。誰もが気づいていたのに特に話題にしない、なかったことにされている、あえて触れられない、というようなテレビ界独特の捉えられ方を、ずっとしていたようなその姿にずっと違和感があった。「マツコ会議」で、マツコさんが堂本剛と語る姿は、それまでのテレビ界での常識、のようなものを思い切り踏み越えていた。まさに「越境」の瞬間だった。
出雲大社を参拝した次の日に、島根のドーミーインのテレビで「マツコ会議」を見て、思わず号泣してしまった。番組では語られていなかったが、堂本剛はある時期、死ぬことばかり考えていたが、音楽によって救われたのだと言う。それはまさに、自分のある時代と同じだった。突発性難聴になったため、音程がずれることがありそれでもできるファンクをやっている、というような話も衝撃だった。ENDLICHERIの「GO TO FUNK」をspotifyで聞いたとき、なんで!?堂本剛が!?ファンク!?と度肝を抜かれたのだが、そんな理由があったとは・・・。
「GO TO FUNK」の衝撃は、J -WAVEのカウントダウン番組をカセットテープに録音して、初めてプリンスを聞いたときと同じくらいのインパクトだった。プリンスは、その見た目も音楽も、ひたすらに気持ちが悪かった。大体、自分の名前を記号にするというのはどう言うことなのか。読めないし。
そんな「プリンス」の紫は、ENDLICHERI、に見事に引き継がれたのだった。川沿いの断熱材のない家で読んだ「中学一年生」。近くの棟のベランダが落ちた狭い団地で聞いた「硝子の少年」。そしてプリンス。それらが全て2022年のENDLICHERI、へと繋がり、2022年のサマーソニックに出演する。コロナ感染者数はまた増えているが、紫色のライトを浴びる堂本剛を見なければならない。自分も、ここまで生き延びてこれてよかった。こんな時代ではあるが、なんとか今まで生き延びられたことを、八百万の神に感謝したい。2022年の今、堂本剛(ENDLICHERI)のパフォーマンスを、絶対に見たいと思っている。
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