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ちょっぴりの抵抗と花を添えて

私は天真爛漫大はしゃぎ小学生だったはずなのに、中学校に上がってからポキポキと、高校以降はバキバキと、様々なことで自己肯定感をへし折られ失っていった

ちょっと疲れた人間、ねるこだ。

メンタルはガラス製で、ちょっとは耐えるけど、砕かれちゃあもう1回溶かしてもらってから形を整えなければならないタイプだ。

暇があれば、惨めな自分の出来ないこと出来なかったことを見つけては慰めて部屋に籠って、ああすれば良かったと終わったことに対して何回も頭を悩ませていた。

ここまで書くだけでも、すでに文字がジメジメとしている。

そんな悲観的過ぎる自分に嫌気がさしつつも、そのドロドロとした自己嫌悪の沼の居心地の良さに甘えていた。
自分を低く見積る事で、何を言われても傷つかないようにしていたのだ。

でも最近になって、沼に居続けるのにようやく焦りを感じて

変わりたい。変われるかな。
否、絶対に変わってやる。ものすっごく幸せになってやる。

と内心メラメラしている。
今の私は熱々のガラス玉だ。
今までの自分に戻らないように抗ってやるんだ。

だから、このnoteを始めてみた。
友達も複数人やっているし、自分の思考を言葉に起こすのも好きだし、何もやらないより何かをやる方が自分の為になると思ったのだ。

趣味で描いてる絵も学びの意識を持って取り組んでいる。そしたらまたメキメキと見てわかるくらい上達した。

これが、自愛なのか
ふと思った。きっと今までの私は自分を大切にできてなかったのだ。

いつまでもメソメソして、

ああ言われた。こう言われたから私はこうなんだ。私は何もできない人間なんだ。

そうやって人に言われた言葉に左右され、決めつけて、自分の道を閉ざしてたのは紛れもなく、自分自身なのだ。

今までの私は自分の可能性に目もくれず棄ててしまっていた。
それに気づけていなかった。

誰かに向けられた言葉の刃物なんか抜き取ってポイだ。
捨ててしまえそんなもの。
自分を幸せにできるのは自分だけだぞ。
自分の可能性を信じれるのも、育てられるのも自分だけ。
他人に自分の幸不幸を委ねるんじゃない。

今になってそう思えるようになった。
ここまで来るのに何年経ったことやら。

自分を愛せるようになったからか、自然と幸せな気持ちも日々も増えてきたように感じる。
やはり笑う門には福来るのだ。

幸せは幸せを呼び。
不幸には不幸が寄ってくるのだ。

最近習慣にしてる事なのだが、
個人的に自分を少し偉大な人間だと思い込むのが、へっぽこべこべこメンタルにはちょうどいいと思っている。

なので心の中で一人称を「この私が」に変えてみた。

これがまた凄く楽しい。

例えば、絵を描いた時、心の中で

なんだこれは?!良い!!良過ぎる!!この私が褒め讃えよう

と言うだけで、私の中では物凄い傑作が生まれているのだ。

誰かに用事を頼まれた時も、

この私が頼まれてあげているのだ。感謝したまえ。

と心の中でふふん!!と鼻高らかにドヤ顔をしている。

言わなくてもわかるだろうが、あくまで、口調だけ偉大にするのがポイントだ。

これが馴染む頃には、自己肯定感はもりもり成長しているだろう。
根拠はない。

余談。
言葉というものは、凶器にもなるが、自分を助ける魔法にもなる。

これは私のただの感覚と体感だが、

言葉は文字通り植物で

嫌な言葉から蒔かれたものは心に根っこを伸ばし、蝕み毒を撒き続け

良い言葉から蒔かれたものはふとした瞬間に心に花を咲かせてくれる

自分にとって素敵な言葉が沢山芽吹き、人生を彩る様に生きていきたいものだ。




ここまで読んでくれてありがとう。
実はこういった、自分のしっちゃかめっちゃか脳内会議みたいなものを投稿するのは初めてで、話が分散しすぎてないか、行間狂ってないかとか悩んでて少し緊張している。

というか既に、パソコンで一回投稿してスマホで見た時ぐちゃぐちゃになってて、今、全力で修正している。

始めたてということで、大目に見て頂きたい。

ここまで読んでくれたあなたに、私の大好きな言葉の1つを贈って、このノートを締めくくろうと思う。

「後ろばかり振り返ってると、前で待ってるものに気が付かないぞ。」

映画 レミーのおいしいレストラン  より


あなたの人生に沢山の素敵な言葉が咲き誇りますように。


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