タイトル未定 X(旧Twitter)で頂いたセリフを全部使って書く小説 途中経過 8/30時点



頂いたセリフ①
頂いたセリフ②

 光が、遠くなっていく…

 静かに底へと手繰り寄せられるような感覚を背中に感じながら、僕はゆっくりと水の中を沈んでいる。

 光の方へと右手を伸ばそうとするが、鉛のように重い腕は全く動いてくれる気配がない。徐々に離れていく光を見ていると「羨ましい」という言葉がぴったりの感情が心を支配する。

 あの光の先にはいつもの僕がいて、きっと幸せな明日を生きていくんだ。

 遥か遠く離れていく水面の光。
 それはもう僕には決して届く事のない、眩しすぎる光だった。



「おはよ!いつまで寝てるの?」
 階下から呼ぶ母さんの声でハッと目を覚ます。最近は起きた時にあまり夢の内容を覚えていないけど、また小さい頃に溺れた時の夢を見たのだろう。その夢を見ると服が肌にまとわりつく程の汗をかくから起きるとわかる。

 あとヨダレも出てる。僕はティッシュで口元を拭いてから階段を降りた。

「よう、龍介。遅いお目覚めだな」
 リビングに着くと、純一がコーヒーカップを片手に挨拶をしてくる。ドレッドヘアーに変えてから人相が悪くなった純一は、家の中なのに色がついた眼鏡をしているのも相まって危ない人にしか見えない。

「おはよう純一。ちゃんと仕事してるの?」
 僕は朝ごはんが用意されている食卓につきながら返事をする。今日はバターロールがメインの洋食。バターが香るスクランブルエッグには塩胡椒が振ってある。ベーコン焦げ目も良い感じ。

「かー!やだやだ!子供にまで職の心配をされるなんてさ〜。どう思うよ美玖?親の顔が見たいよな?」
 純一は額に手を当てたり両手を広げたり、大きなリアクションしながらキッチンにいる母さんに話しかける。

「そんな格好をしてるからでしょ。親の顔が見たいなら、たまにはご両親に顔でも見せてきなさいよ」
 純一とは対照的に、今にも仕事に出られそうな格好のお母さんが食事を持ってキッチンから出てくる。朝ごはんの前にほとんど身支度が整っているのは毎度の事ながら感心してしまう。

「いや俺の親の事では…っていうか俺の格好は良い感じだろ!この頭は洗うのに凄く時間も掛かるんだぞ?俺の仕事はこの格好で問題ないの!全く、俺の事をなんだと思ってるんだか」
 純一が大げさに溜息をつくと、お母さんはバターロールを口元に運びながら笑顔で「クレジットカード」と答える。

 純一は何かを言いかけてからやめ、更に溜息を吐いてテレビをつけた。画面には最近よく見る偉そうなお爺さんが映っている。
 そういえば何の人だか知らないけどこの感じはインタビューかな。丁度今から始まるみたいなので、僕も何となくテレビを注視する。

「アイナナは偉大である」
 お爺さんはインタビューの一言目をここで止めて間を溜める。一体何のインタビューだろうかと改めて見出しに目を向けると、『またも失敗 遠のくアイナナの軍事利用』と書いてあるのが読めた。

「軍事利用に失敗とか言われてもな。そもそもワシはアイナナの軍事利用など認めてちゃおらん。自律可変型総合生活支援機i7型は、その名の通り人々の助けになるべく存在しとるもんじゃ。
 アイナナなどチャラチャラした名前で呼ばれるのは最初こそ気に食わんかったが、今では良い名だと思っておる」
 見た目はとても悪い事をしてそうなお爺さんなのに、軍事利用を進める方じゃないんだ?意外な事実に興味を惹かれ、僕はベーコンを齧りながら引き続きテレビを見る。

「皆さんも知っての通り、アイナナには無限の可能性がある。人類の模倣の歴史の集大成じゃ。それを世界一優秀な兵士だか何だかしらんが、まず」
 ここでいきなりお爺さんの顔が消え、バラエティ番組に切り替わる。純一が番組を切り替えてしまったのだ。

「純一。僕さっきの見てたんだけど」
 僕が抗議をすると、純一はこちらを振り返り笑顔を見せる。

「悪い!けど俺、アイナナ嫌いなんだわ。だからあの爺さんも嫌い。アイツらが人間社会に紛れてるの、結構怖い事だと思うぜ」
 純一はこう言い放つとスクランブルエッグを一気に口にかき込む。アイナナが嫌いか。っていうかあのお爺さんは結局何の人だったんだろう。

「こら!龍介の前で変な差別発言はしないでよ。実際アイナナのおかげで助かってる人多いのよ。アイナナだって個性の時代。多様性を受け入れる事って大事だと思う」
 お母さんが純一に抗議すると、純一は少し肩をすくめて両手を広げる。こういう所、何となく昔の外国映画が好きな純一っぽいと思う。

「受け入れない事も多様性」
 純一は僕に向かってウインクをして部屋を去る。そろそろ仕事に行くのだろう。僕は純一の背中に小さく手を振った。

 純一は僕のお父さんだし一緒に住んでいるけど、お母さんとは結婚していない。「考え方が合わないんだ」とお母さんは笑って言っていたから、そういうものなのだと思う事にしている。

「仕事いきたくなーーーい!!!!!」
 お母さんが小型防音室で叫んでいる。たまに朝ああやって叫んでいるのがストレス解消に良いらしい。ちょっと音漏れしているのが面白いけど、大人は大変なんだろうなぁ。

「よし、じゃあ行ってくるね。夏休みだからってあんまり家の中でのんびりしてたらカビちゃうよ!」
 母さんは僕に手を振って家から出る。僕も手を振り返してからテレビを見にリビングに戻る。
 まだ喋ってるかな?と思ってさっきのお爺さんのチャンネルに切り替えたけど、強そうでカッコいいお兄さんが「仕事も凄く大変で責任感があって」と真面目に答えているだけだったのでテレビを消した。カビちゃう、か。外に出てみよ。
 僕は身支度を整えてある場所に向かう事にした。


「着いた…」
 暑さ対策の冷却を整えても尚暑い。そんな夏の道を歩いてきた達成感に思わず言葉が出た。目の前にあるのは保全館だ。文化を文字通り保全しているだけの保管庫。

 今は家にいても本や音楽、美術品等をその場にいる感覚で鑑賞出来る。文化のレベルを一定に保つために無償で政府が提供しているサービスだけど、大昔は図書館や美術館など、その場所まで行かなければ多くの文化に触れられなかったみたい。

 保全館はそれらのオリジナルを資料として保管しているのだけど、当然保全の観点から触ることなど不可能なので来訪者はほとんどいない。僕も家の近くになければわざわざ来ることも無かったと思う。

 保全館の中に足を踏み入れると冷んやりとした空気が僕を覆う。生きてる!って感覚をなんとなく感じる気持ち良さだ。
 いつもは触らなくても楽しめる絵画フロアを歩くのだけど、今日はちょっとした目標があったので図書フロアへと足を向ける。

「あった」
 たどり着いたのはアイナナについて書かれた文献コーナーだ。あまり意味が無いけど、ここで本のタイトルを見て僕の持ってきたスマートデバイスで内容を調べると決めている。

「ブラックベリー」
 スマートデバイスを起動するワードを口にする。ブラックベリーのマークが目の前の虚空へと浮かび上がり、メニュー画面へと変わる。

「子供向け アイナナの歴史 本の形式で」
 検索ワードと表示形式を口にすると、目の前に数冊の検索候補が浮かび上がってきた。保全館にあるものと同じ表紙の本を手に取って実体化し、パラパラとめくる。目の前にあるのに遠回りをする感覚が何となく楽しい。

 一日で全部読むのは大変そうだ。僕は毎日保全館に通い、数日かけて気になる記事をピックアップする事にした。

◻︎一日目
 自律可変型総合生活支援機i7型(通称アイナナ)は人類の手助けをするべく、那珂川博士の手によって生まれた可変型の機械。
 質量や重量などあらゆる条件を無視してどのような形状にでも変化出来る事から、アイナナよりも作成コストの高い大型総合支援機などへの変化が主な用途だった。

 一度変化してしまうとアイナナには戻れない。変化後の状態のアイナナを基にした変化は可能であるにもかかわらず、変化前の状態のアイナナを基にした変化は出来ない事が大きく話題を呼んだ。
 理論上何にでもなれるアイナナに発生したこの不思議な現象から、アイナナに心があるのではないかという俗説が一時期評論家の間でも流行した。

◻︎二日目
 当然の流れにはなってしまうが、命あるものへの変化は可能かという議論が持ち上がった。しばらくの間沈黙を守っていた那珂川博士だが、突如SNSに次のような答えをだす。

「理論上何にでもなれると言っただろう。だが何でもやって良いわけではない。現行法では自律可変型総合生活支援機i7型が仮に人間になった所で人権がない。もっと生産的な議論をしろ。馬鹿か己らは」
 この過激な発言で那珂川博士が炎上した事は言うまでもないが、同時に生命をもコピー出来る事を明言している事で議論が新たなステージへと上がる。

◻︎三日目
 権利団体や生命倫理委員会など様々な反対意見を押し切って政府が牛に対してアイナナの適用を強行した。理由は明らかにされていない。那珂川博士はこの強行に対する意見を求められた際、次のようにコメントしている。

「大昔にクローン技術が生命に適用された際も大きな議論を呼んだが、今回は生命倫理などとはまるで次元の異なる問題だ。コピーだぞコピー。自身がどれ程恐ろしい事をしているか、まるで理解していないようだな。首相をもう一人増やしてやろうか?」

 那珂川博士のコメントに対し、時の首相の菅原氏が「有難いお話です。もう一人自分が欲しかったんですよ。忙しくてね」と返答した事で野党が猛反発。陳謝の効果も薄く、菅原氏は首相の座を追われる事となった。
 ただし「もう一人自分が欲しかったんですよ」は皮肉にもこの年の流行語大賞に選ばれている。
 
◻︎四日目
 アイナナの人間への適用に向けた法整備(通称アイナナ法)が終わり、アイナナにも適用元と同等の権利が保証されるように。いよいよアイナナの人間への適用が始まろうとしていた段階で那珂川博士より以下の重大な発表がされる。

「人類がまさかここまで愚かだとは思わなかったので言っていなかったが、アイナナは自身がアイナナである事を知るとアイデンティティが崩壊してものの数分で自壊してしまう。
 ワシがそう作ったのではない。性質を考えろ。自分が何者かが分からなくなって形を保てるわけがなかろう。
 牛のコピーの際に伝えたはずだが見事に秘匿されていたようだな。政治家さんは隠すのだけは異様に上手い」
 世間のバッシングは既に政界から身を引いている菅原氏に及んだが、菅原氏は知らぬ存ぜぬの一点張りを貫いたままその生涯を終えた。

 四日目の夕方、そろそろ帰る時間になって僕は今日まで学んできたアイナナの歴史について振り返る。

 アイナナは今となっては生活に溶け込んでいるから、かなり意外な歴史だった。特に驚いたのは、最初は生き物をコピー出来なかったという箇所だ。どうやって食料を確保していたのだろう。昔の生活様式に興味がつきない。
 途中で出てきた「アイデンティティの崩壊」の意味が分からなかった事を思い出した僕は検索で調べ始める。

 アイデンティティとは「自分が自分であること、存在証明」か。
 よくわからないけど自分が自分だってわかってるって事ってどんな感じかな。

『僕はアイナナ。僕はアイナナ。僕はアイナナ』

 意味を理解した瞬間に心がとても苦しかった出来事を思い出してしまう。アイナナはとても身近な存在。それが僕の心に刻まれた不思議な出来事だった。


「みんな!アイナナを見破る方法が見つかったよ!」
 同級生の文彦が突然そんな事を言い出したのは、ある日放課後になった直後の事だった。まだ教室にはたくさんの生徒がいたので、何人かが文彦の所に集まる。僕もその一人だ。
 今考えれば、その時はまだアイナナが人間に適用される事が一般的ではなかったのだと思う。「人間に化けたアイナナ」は僕らの中でオカルトのような存在だった。
 
「アイナナは自分がアイナナだって分かると溶けて消えちゃうんだってさ。鏡に自分の姿を映しながら『僕はアイナナ』って三回言うとアイナナは溶けちゃうみたい」
 文彦は声のトーンを落とし、周りに集まった子達だけに聴こえるように言った。みんなは「えー」とか「うそだー」などの反応をしていたと思う。半信半疑よりはだいぶ疑っている感じだ。

「じゃあみんなでやってみようよ!三階にある大きい鏡を使ってアイナナ探し!」
 文彦が呼びかけるとみんなが目を見合わせる。みんな少し怯んでしまったような様子だったったと思う。

「だって…そんな」
 怜ちゃんが声を上げる。怜ちゃんは家が近所で、怜ちゃんのお母さんと僕のお母さんは仲が良い。自然と僕達もよく遊んでいる。
 今から発する言葉の恐ろしさに、怜ちゃんは少し言葉に詰まってしまってるような印象を受けた。

「溶けちゃうんでしょ?もし私がアイナナだったら。絶対嫌なんだけど」
 他のみんなもうんうんと頷く。僕もお母さんと純一の顔を思い浮かべる。僕が溶けてしまったら二人共悲しむに違いない。そんなみんなの様子に対し、文彦は明らかに苛立っていた。

「アイナナが見つかるかもしれないのにやらないの?龍介はやるだろ?」
 いきなり僕に白羽の矢が立つ。今になって考えてみれば、僕がその場のノリで断らない性格なのを見抜かれていたのだと思う。

「やめなよ。龍介を巻き込むの。自分だけでやれば良いじゃん」
 怜ちゃんが僕を庇う。けどそれは今逆効果だ。文彦が明日以降僕をからかうネタが増えるだけだ。
 

「僕、やるよ」
 考えていた事と真逆の答えが口をついて出てきてしまった。既に後悔はしているけど引き返す事は出来ない。怜ちゃんは不安そうな表情をし、文彦は満足気に頷く。

「まずは龍介と僕がやるから、みんな見ててよ!」
 一旦始めてしまえばみんなが続くだろう。文彦がそう考えていたのかは分からないけど、まずは僕と文彦がやる事になってしまった。三階に何故か置いてある姿見の前に立つ僕。

「龍介、三回だぞ!鏡の中の自分の目を見ながら言うんだ!」
 更に何故か僕からやることに。しかも自分の目を見ながら、なんてさっきは言っていなかった気がする。
 鏡の中の自分と目を合わせた瞬間、自分が本当に溶けてしまうのではないかと不安になった。記憶をどう遡ってもアイナナであった記憶はない。そういうものかもしれないけど。自分を何とか奮い立たせて僕は言った。

「僕はアイナナ。僕はアイナナ。僕はアイナナ」
 溶けていく自分を見たくなくて思わず一瞬目を瞑る。薄目を開けて恐る恐る自分の姿を確認するが、特に何の変化もなかった。思わずホッと胸を撫で下ろす。

「オッケー!龍介は人間な!他にやりたい人!」
 文彦の人間な!の一言が効いたのだろう。ハイ!ハイ!と手が上がって次々とみんなが挑戦した。文彦がどこからか持ってきた「アイナナを見破る方法」は、その時ただの「人間の称号を得る方法」になっていた。

「怜ちゃんはやらないの?」
 八割方のメンバーが終わった時に文彦が怜ちゃんに声をかける。怜ちゃんは即座に首を横に振った。

「だから私は」
 けどそこで怜ちゃんは周りを見てしまった。やらないの?という無言の圧力を感じてしまったのだと思う。

「…やるよ」
 怜ちゃんは鏡の前に立って深呼吸をした。一瞬また周りを見渡して僕とも目が合ったが、僕はこの時止めなかった事を、多分これからもずっと後悔することになる。

「私はアイナナ。私はアイナナ。私はアイナナ」
 言い終わった直後に異変は起きてしまった。怜ちゃんが何か恐ろしいものを見ているかのような表情をしながら鏡から後退りし始める。

「あなた、誰?」
 震えながら鏡を見ていた怜ちゃんは、突然ものすごいスピードで走り出した。とても人間に出せる速度では無かったと思う。
 我に返った僕が慌てて追いかけようとした時、既に校舎の外で走っている怜ちゃんが窓から見えた。
 
「さっきのは何!?もしかして園崎さん?」
 先生が職員室から出てきて僕達に問う。担任の先生だ。怜ちゃんの苗字が園崎である事を一瞬遅れて思い出した僕は、うんうんと何度も頷く。何人かは泣いており僕も言葉が出て来ない。

「何が起きたか教えてもらっていい?」
 僕がかいつまんで何が起きたかを話すと、先生の顔色が見る見る内に蒼白になっていく。話の最中に気になって文彦を何度か見たけど見て分かるくらいに震えていた。
 
「君達はどう」
 先生はそこで言葉を止める。先生の視線の先を追うと、怜ちゃんがうつむきながらゆっくり校門から歩いてくるのが窓から見えた。
 …いや、あれは僕が知っている怜ちゃんだったのだろうか。数年経った今も心のどこかで信じていない所がある。怜ちゃんはどこかに生きているのではないか。

 怜ちゃんの服こそ着ているものの、肌ではなく金属が身体を覆っている。ギリギリ人の形をしていたそれは、歩くたびに少しずつ溶け落ちていた。

 あまりに非現実的な姿だったので数瞬目を奪われていたけど、「園崎さん!!」と叫んで先生が昇降口へと走り出した事で我に返った。
 慌てて先生の後へ続いて走たけど、僕達が着いた時には怜ちゃんはもう服を残して消えてしまっていた。少しずつ溶け落ちていたはずの身体も、どこにも残っていない。

「…今日の事は誰にも言わないようにね」
 先生が怜ちゃんの服を見つめたまま、こちらを振り返らずに言う。先生の言葉の意味が分からない。もし僕が何も言わなかったとしてもテレビで放送されるような大事件になるはず。
 怪訝な顔で先生を見ていると、先生はゆっくり振り返って笑顔で言った。

「帰りなさい。…明日学校に来れば分かる。ご両親にも今日は内緒だからね。明日学校から帰ったら、誰に言ってみても良いよ」
 こんな状況で笑顔を崩さない先生が不気味で怖かった。僕は先生に向かって反射的に頷いたあと、残された怜ちゃんの服を見る。とても悲しいはずなのにまるで実感がなかった。
 今になって考えると不思議なのだけど、その後は僕もみんなも一言も交わさずに学校から帰ったと思う。誰かが泣いていたとか、そういう記憶もない。
 僕を庇ってくれた怜ちゃんの顔、震えている文彦の顔、僕の家に来て遊んでいる怜ちゃんの笑顔、グラウンドに残っていた怜ちゃんの服。先生の笑顔。ぐるぐるぐるぐると考えがまとまらないまま歩いている内に家に着いた。

「おかえりー。今日は私の方が早かったね」
 お母さんの顔を見た時にハッとする。怜ちゃんのお母さんが何も気付かないはずがない。もしかしたら家にくるかもしれない。本当にお母さんに何も言わなくて大丈夫かな。

「どうしたの?ご飯盛っておくね」
 心配そうな言葉を覚えているからお母さんのご飯は食べたと思うけど、全く覚えていない。お母さんが終始普通の様子だったのだけは覚えている。怜ちゃんのお母さんも結局家には来なかった。
 純一がその日家にいなかったのもあり、僕は結局誰にも怜ちゃんの事を言えないまま一日を終えた。

「おはよう龍介!」
 次の日もいつも通りお母さんの挨拶で起き、いつも通り学校に向かう。僕だけがいつも通りの生活を送ることに少し後ろめたい気持ちがあった。
 教室に着くと今日は文彦の席が空いていた。今日は文彦は休みかな。昨日の事を話したかったのだけど、他に昨日参加したメンバーの顔も見当たらない。勿論怜ちゃんも。僕は仕方なく席に座って朝の会が始まるのを待った。その朝の会の時に決定的な異変が起きる。
 
「おはようございます。朝の会を始めましょう」
 そう言いながら入ってきたのは全く知らない先生だった。驚く僕を尻目に日直や他のみんなは何事もなかったかのように朝の会を進めている。
 
「では出欠を取ります」
 全く知らない担任の先生に次々と読まれる名前の中に、昨日のアイナナ探しの参加メンバーの名前はない。まるで元々いなかったかのような扱いだった。

「園崎怜さんと伏見文彦君ですが…ご家庭の都合で本日から海外に転校になりました。あまりに突然で先生もびっくりしていますが、園崎さんと伏見君、お二人のご家族にとっても本当に急な事だったようです。
 とても悲しいですが、応援しましょうね。二人へのメッセージがある方は先生が必ずお渡しします。来週の水曜日までにメッセージを下さい」
 これに対してはみんなからも動揺の声が上がったけど、僕はなんで文彦だけが転校という扱いなのかすら分からないので、震えるくらいに混乱してしまった。そんな僕の様子を担任の先生は目ざとく見つけて近付いてくる。

「大丈夫?二人と仲良かったものね。辛いでしょう。朝の会が終わったら、先生の所に来て下さい」
 先生は優しくそう言うと出欠を取り続けた。僕は朝の会が終わった時に先生の席に向かう。色々聴きたい事はあるけど、僕が本当に知らなければならない事は少ない。
 先生は僕が側まで来ると、それまでの優しそうな表情から一瞬だけ不敵そうな笑みを浮かべた。その顔を見て僕は先生が何か知っている事を確信する。

「怜ちゃんはどこですか?文彦は?」
 多分周りに聴かれてはいけないお話だと思い、僕は声を潜めて話しかけた。先生は一瞬だけ指を顎にあてて考えるような仕草をした後に周りを一瞬だけ見渡す。

「私が誰かを聴かないのは良い心掛けだと思う。園崎さんは気の毒だったわ。あなたも見たでしょう。伏見君はさっき話した通りよ」
 先生は声こそ小さいもののあっさりと言う。怜ちゃんの事を頭の隅に残しつつも、一番気になっていた事を僕は聴いてみる。

「なんで、忘れてるの?」
 先生は僕の問いに対して首を傾げる。怜ちゃんの事も文彦の事も僕は覚えている。けど、アイナナ探しを一緒にやっていた他のみんなの事を全く思い出せない。
 絶対に何人か居なくなっているはずなのに、先生が出欠簿を読んでいる間にも何の違和感も抱く事が出来なかった。
 先生は少し考えた後に僕の質問を理解したらしく「あー、はいはい」と二度頷いた。

「昨日の事を誰にも言わなかったでしょ?私に言えるのはそれだけ」
 この言葉は今も僕の心に深く突き刺さったままだ。僕はあれ以来、お母さんにも純一にもこの事について話せていない。怜ちゃんや怜ちゃんの家族について、お母さんから何か言われた事もない。
 怜ちゃんは僕の大切な友達だった。今はそれだけを覚えておこうと思う。


◻︎五日目
 「龍」は信仰対象として崇められている蛇神を表している言葉である。一方では蛇神を邪教とし、討伐すべきドラゴンとして表現している言葉でもある。

 全く逆の意味を持つので二つの単語に分けるべきだったと思われるこの単語だが、今も特に分ける事なく使われている。

 「竜」と簡易に表す事も多く、巨大な爬虫類を思わせる伝説上の生き物をまとめて指す事も多い。蛇神を「龍」ドラゴンを「竜」と使い分けるケースもある。

 相反する二つの意味合いを持った言葉ではあるが、同じような姿の龍の目撃談が時代も国も超えていくつも存在しているのが興味深い所だ。

 

 五日目の今日はなぜか龍を調べる事になっている。
 お母さんに保全館に向かう所を見つかり、保全館での過ごし方を話したのだけど「退屈じゃない?」と笑われてしまった。
 僕は毎日調べもので充実している事を熱弁したのだけど、僕の名前に入っている「龍」の漢字について調べるよう誘導されてしまった。とても残念だと思う。

 龍の字は僕の名前の中で最も画数が多く、小さい頃はただ書くのが面倒なだけの漢字だった。けど今はちょっとかっこいいので気に入っている。
 お母さんに言われての事ではあるけど、龍については知りたかったので良い機会だと思って調べてみた。
 
 いつでもどこにでも存在する龍。爬虫類のUMAのようなものだと思っていたけど、神獣や水の神としても扱われている。結構良い気分だ。

『よう、相棒。何日かここに来てるけど、今日はアイナナじゃなくて龍について調べてるんだな』
 龍についてのまとめが終わりブラックベリーを閉じた瞬間、機械を通しているような不思議な声が聴こえた。周囲を見回すけれど誰もいる気配がない。
 気のせいにしてはハッキリと聴こえ過ぎている。僕は電子警棒を取り出そうと右手でカバンの中を探った。

『おーっと待て待て相棒。なんか物騒な事しようとしてるだろ。見えるようにするから慌てるなよ』
 位置が掴めない不思議な声だ。キョロキョロと周りを見回した際、目の前に何かが現れた事に気付いてギョッとする。さっきまで何もなかったはずだ。じっとこちらを見つめている。
 それはお化けだった。いやお化けとしか表現出来ないのだけど、もっとポップな感じの一頭身のキャラクター的なお化けだ。透けているけど妙に布っぽい質感がある。目が大きくて可愛い。

『改めてこれが俺様の姿。愛らしいだろ。Q助って名前のお化け型のアイナナだ。Qはアルファベット。助は相棒をいつでも助ける意味の助だ!よろしくな!相棒!』
 Q助はウインクをしてポーズを取る。情報の処理が追いつかない。自分でお化けって言ってる。僕は一呼吸置いて質問をする。

「なんで僕が相棒なの?」
 多分聴きたい事の中でも優先度の低い質問が勝手に口をついて出て来てしまった。僕も相当動揺してるんだな、と冷静に考える自分がいる。

『それは簡単!明日から一緒に旅に出るからだ。おーっと安心してくれ。保全館には色々なプログラムが用意されてるから、ご両親にも納得の理由を届けるぜ。急だけど出発は明日だ』
 Q助は矢継ぎ早に話す。明日とは本当に急な話だし、僕が行けるとも言っていない。何よりお母さんと純一を納得させるってどうやるのだろうか。胡散臭い話だ。
 少し冷静さを取り戻した僕は次の質問をする事にする。

「本当にアイナナなの?自分がアイナナだって知ってるのになんで溶けないの?」
 アイナナは自分がアイナナである事を知ると溶けてしまう。僕が目の前で体験をした事だ。目の前のQ助が本当にアイナナである場合、自分がアイナナなどとは名乗れないはずだ。

『ん!?溶けるって言ったか?怖い事を言うなよ相棒。まぁけど言いたい事は分かったぜ!答えは簡単。俺様が特別なアイナナだからだ』
 Q助は「ふふん」とでも言いたそうに胸の前で腕を組む。けどまだ納得がいかない僕に気付いたのか、少し考え込む動作をした後に説明を続けた。

『おおかた自分の正体を知って溶けちまったアイナナを見た事があるって所だろ?そいつが溶けちまったのは「アイナナは自分の正体を知ると溶ける」って思い込んでいたからだぜ』
 Q助はズバリと当てる。確かにあの時、あの場に居たみんなはアイナナは自分の正体を知ると溶けると思い込んでいた。

『相棒がこの間調べていたように、アイナナは自分の正体に気付いたら自壊する。大体の奴は何も残さず消えちまうみたいだな。
 俺様の場合は自壊してお化けになったってわけだ。簡単だろ?つまり今の俺様は無敵ってこと』
 Q助は自慢気に胸をそらす。たしかに筋道は通っている気がする。ちょっとQ助に興味が湧いて来た。

「旅に出るのは何で?何日間どこに行くの?」
 もしかしたらアイナナを知るこれ以上にない機会かもしれない。僕はQ助と旅に出る事を前向きに考え始めていた。

『慌てるな慌てるな。ちゃんと説明するよ。
 まず十日間の旅で、美味しいものも食えるし海もみる予定だ。
 俺様の旅の目的は追々説明するけど、基本は予め送ってある旅のしおり通りに動くぜ!交通費とかは心配しなくていいし、宿も抑えておくからイージーな旅だ』
 Q助はウインクしながら両手で丸を作る。とても怪しい。怪しいけど海か。溺れた記憶はあるのに、僕は海を見た記憶がない。そもそも溺れたのは海かどうかも分からない。どんな所なんだろう。
 行ってみたい気持ちが強くなってきたけど、お母さんが許可してくれるかは未知数だ。そもそも僕は一人で旅に出た事がない。

『明日の午前十時半にここに来てくれ。まぁ万が一ご両親の許可がおりなかったら仕方ないけど、俺様は天才だからきっと大丈夫だ。家に帰れば分かるよ。じゃあな!』
 Q助は言っている間に徐々に姿を消し、ついに居なくなってしまう。あまりに何もなくなってしまったので、僕は白昼夢を見たのではないかと自分を疑いながら家路へと着いた。

「龍介!あなた凄く運が良いじゃない!」
 家に着くなりお母さんが僕に声を掛けてくる。Q助が言っていたのはこの事だろうと察する事は出来たけど、打合せが足りなさ過ぎてどう反応して良いか分からない。僕はお母さんに向けて半笑いの愛想笑いを向ける。

「保全館の一万人目の来場者だって?いくら保全館に人気がないと言っても少なすぎるだろ。カウントバグってるんじゃないか?っていうか明日からとか急すぎるな」
 純一のお陰でようやく状況が理解出来た。明日からの旅行はどうも来場者記念でのプレゼントという、とても怪しげな景品として僕に贈られるようだ。Q助っぽい。

「けど学習旅行って書いてあるし、子供だけで言えば一万人くらいで合ってそうじゃない?
 保全館もあまりに暇だから入場記念で旅行を用意してたのに、一万人目が中々来なくて焦ってたと思うよ。龍介も暇潰しが思わぬ幸運に転んだわね。一人旅も良い経験だし行ってきなさい」
 お母さんには保全館も僕も余程暇に見えているのだろう。とても心外だけど、快く旅行には送り出してくれそうだ。

「これが旅のしおりか。アイナナに関連する旅ってのが少し気に入らないけど、地方都市を巡る旅か。海も行くんだな。ちょっと面白そうじゃないか。
 お!話題の最強の兵士にも会えるのか。宿も良い宿で予約されてるし生意気だな〜」
 スケジュールが送られている事に驚いて純一に見せてもらったら、ちゃんとした旅のしおりが送られていた。Q助の見事な働きに素直に感心する。
 最強の兵士という響きに興味をくすぐられて画像を見たところ、何となく見た事がある顔が写っていた。誰だっけこの人。どこかで見たような。

「ま、楽しんでこいよ。保全館で引きこもってるよりはいい休日になるだろ」
「ちゃんと準備していくのよ。何日も泊まるんだから。海には入っちゃダメよ」
 純一とお母さんに立て続けに声を掛けられて我に返る。十日も二人と離れるんだ。よく考えたら初めての体験なので嬉しい反面少し心細い気もする。まさに遠足前の気持ちになり、その日は中々寝付けなかった。


『歯磨いたか?』
 保全館に着くなりQ助が出迎えてくれる。やっぱり夢ではなかったらしい。僕がバッチリ磨いた事を指で伝えると、Q助は満足そうに頷いた。

「今日からのスケジュールはじゅん…お父さんに見せてもらったけど、どうやって行くの?」
 昨日の夜、寝付けなかった時にふと気になった事だ。Q助は他の人には見えない系のアイナナっぽい見た目なので準備をしているようには思えなかった。
 旅のしおりこそしっかりしていたけど、泊まる所などが本当に予約されているのかは疑わしい。

『普通に公共交通機関だぞ相棒。俺様が万能といえど、乗ったりは出来ないぞ。このカードでフリーパス。宿も相棒の身分証明だけで大丈夫だ』
 カードは保全館名義の本物のようだ。お化けにしては準備が良過ぎる。実は保全館が用意したマスコットキャラか何かなのかも。

『ほら早速行くぞ相棒!この木の枝が倒れた方へ行こうぜ!』
 Q助は保全館前の広葉樹からもぎ取ったと思われる枝を道の真ん中に立てる。Q助が枝にさわれる事に驚いている間に枝は倒れてしまった。それを見てQ助はクルクルと軽快そうに枝の倒れた方へ移動する。

『こっちだ相棒!安心しろ、バス停がある方に倒しただけだ!』
 とても元気そうなQ助のお陰で退屈はしない予感がする。僕も元気よくバス停に向かう事にした。

「Q助は他の人にも見えるし触れるの?」
 僕はQ助に追いついた時に気になっていた事を聴いてみる。

『相棒、お化けっぽい俺様もさすがに物質に触れないと旅の準備が出来ないわけよ。だから答えはイエスだ!そこが普通のお化けとちょっと違うところだな。
 あと俺様は誰にでも見える。愛らしい姿すぎて騒がれたくないから、普段は見えないようにしてるけど』
 Q助が左半分だけ透明になる。多分本人的に凄い事をしているのだろう。ちょっと息切れをしている。

「ふーん。あ、バスがきた」
 遠くからバスが来たのが見える。Q助を振り返ると、いつの間にか手しか見えない状態になっており、どこからか出した紙をこちらに差し出している。その手も紙を受け取ったら消えてしまった。
 程なくバスが来てしまったので、何度か後ろを振り返りながら乗車する。ちゃんとQ助はついてきているのかな。もしかしてこれから一人旅なのだろうか。席に座った僕は不安になりながらQ助に渡された紙を読む。

『相棒よ。俺様が見えなくて寂しいと思うが、透明になって着いて行ってるから安心しろ。
 話しかけられても答えないから、怪しい奴になりたくないなら一人旅だと思って行動しろよ!
 行程表も送ってあるから、それ通りに動くようにな。お前の最高の相棒より』
 書いてある内容に安心しつつも、全部口で言えばいい事じゃないかと思ってしまうので複雑だ。

「ブラックベリー」
 スマートデバイスを起動させてQ助のメッセージを確認する。差出人の名前はやはり保全館だ。添付されていた行程表には、いつどこでどんな公共交通機関を利用するかが細かく書いてある。
 今日の目的地は「自然肉体験」という豪華なお昼ご飯を食べる場所だ。美味しそうな中華料理店に予約があるみたいなので向かってみる。

 いざ着いてみると想像以上に華美な店構えに思わず尻込みしてしまった。看板に大きく【自然肉使用】と書いてあるので間違いないと思うけど豪華すぎる。
 今どきアイナナではなく自然のお肉を出すなんて珍しいし、そもそも何か意味があるのだろうか?疑問に思いながらお店に入る。

「いらっしゃーい!お客様一名様?」
 お店のお姉さんが元気な声で話しかけてきたので少し気後れしてしまう。

「はい…あの、保全館の旅行です」
 どう言えば伝わるかを考えながら、しどろもどろに伝えると、「あー!」と納得したような返事が一瞬で返ってくる。

「旅が当たった人ね!おめでと!一人旅だよね?大変ねー。席は用意してあるからこちらにどうぞ!」
 笑顔で一気に捲し立てられる。「ありがとうございます」と言いながら着いて行くと、個室に通された。

「自然肉なんてあまり食べる機会ないでしょ?普通の人にはあまり意味ないしねー。けどウチ美味しいからたくさん食べなー!」
 笑顔で手を振りながら去って行く店員さん。店員さんもあまり意味ないと思ってるんだ。美味しいならいいや。
 そのあと別の店員さんが運んできた料理は本当にどれも美味しかった。唐揚げとエビチリは今までで一番美味しかった気がする。何より食後の杏仁豆腐は時間を忘れさせてくれる美味しさだったから別格だった。
 僕は幸せな時間を噛み締めながら中華料理店をあとにした。

◻︎六日目
 食糧問題の解決にアイナナを利用する案が挙がった。那珂川博士は安全性についてのコメントを求められた際、次のように述べている。

「これについては諸君らの懸念も当然のものだと考える。いくらコピー元が食糧といえどアイナナは機械だ。諸君らの頭では胃の中で機械に戻るアイナナを妄想をしてしまうのも無理はない。
 だが食べ物になったアイナナは機械には戻らん。ゆで玉子が生玉子に戻るのを見た事があるか?アイナナがアイナナで無くなるのは、自分がアイナナであると知った時だと言ったろう。肉が自分のことを肉だと理解して『牛肉でーす』って自己紹介するか?
 じゃがまぁ仮に全てのプロセスで食べ物としての安全性を確認出来た所で、嫌悪感がある者は居て当然だろう。そういう人間は死ぬまで高潔を貫けばええ。ワシはアイナナで美味い飯を食うけどな」

 上記のように那珂川博士はアイナナの変身は不可逆であるとの見解を繰り返した。
 食べ物が意思を持っていたら?活け造りは?などの議論も挙がったが、翌日那珂川博士がアイナナを適用させたタコを踊り食いする動画をあげた事で決着する。
 テロップに「専門家が食べています。絶対に真似しないで下さい」と表示されていた事も話題を呼び多くの人が模倣したが、現在までに胃の中でアイナナへ戻った等の健康被害は報告されていない。
 余談になるが、この時は愛護団体による猛抗議と併せてアイナナの権利を主張する団体からも強烈なクレームが入った。

『旅の空でも勉強とは。真面目だな相棒は』
 ホテルでビュッフェスタイルのディナーを堪能した後温泉に入り、部屋でゆっくりとアイナナについて調べた僕の前にQ助が突然現れる。

「びっくりした!今までどこに行ってたの?すぐに居なくなるなんてひどいよ!」
 現れ方をもう少し工夫してくれないと心臓に悪い。Q助が出てきてくれて嬉しい気持ちと、突然の出現による驚きで僕は思わず大声をあげる。

『おーっと、落ち着け相棒。俺様に会えて嬉しいのは分かるが、隣の部屋にも響いちまう声のデカさだ』
 僕は慌ててうんうんと頷き口を抑える。少し待って見たけど、幸い隣の部屋からクレームは来ないみたいだ。

『透明になって着いて行くって言ったろ?慌てんなって!相棒のプライバシーを侵害しない程度に着いてってるから安心しろよ!』
 Q助はゆっくりと浮かびながら話す。何となく疲れてそうだけど、どうなんだろうか。

「Q助はお腹減ったり疲れたりとかないの?」
 気付いたら質問が口から出ていた。Q助は腕を組んで首を傾げる。そんなに難しい事を聞いたのだろうか。

『…言われてみれば無いな。疑問すら持った事がない。料理とかも美味しそうとは思うけど食べた事ないしな。俺様ってば本当に無敵だったんだなー』
 大声で自慢してきそうなものだけど、ぼんやりした様子でブツブツと独り言のように返事をしてくるQ助。何か考え事をしているような様子だ。

『ま、そんな事より明日の話でもしようぜ!明日は食糧ファームだ!相棒にとっては良い勉強だとかもしれないけど、きっと知らない方が飯が美味いと思うぜ!て事でさっさとその大きすぎるふかふかのベッドで寝るんだ相棒。俺様もこの豪華なソファで寝る』
 Q助は急に切り替えてそう言いつつ、ソファにフワフワと向かったあとゴロゴロと転がった。と思ったら思い出したように身体を起こしてこちらを見る。

『歯磨いたか?』
 僕は「うんー」と答えて目を閉じる。お母さんと純一から特に連絡がなかったけど、そういえば純一の持っていた行程表に「自主性を育てるため極力連絡をしないで」みたいな事が書いてあった気がする。
 二人の事を思い出して一瞬だけ寂しくなったけど、旅行の疲れが大勝利して僕はすぐに眠りに落ちた。

 


『起きろ相棒!いい天気だぞ!』
 次の日の早朝、Q助が元気な声で僕を起こす。いつの間にか閉まっていたカーテンをQ助が勢いよく開けると、強烈な日の光が飛び込んできた。あまりに眩しくて僕は枕に顔を埋める。

『おいおい、相棒はお寝坊さんタイプか?もう七時だぞ!朝食は二階のレストラン!歯も磨けよ!』
 Q助が小言を言いながら僕の周りをくるくる回るので、根負けした僕はレストランへ行って朝ご飯を食べる。ホッケの干物とパリパリの海苔で食べるご飯はとても美味しかった。

 部屋に戻ったらQ助が居なくなっていたけど、いつか現れるだろうとあまり気にせず歯を磨いて身支度を整える。けど結局出発の時間が迫ってもQ助は現れなかったので、仕方なく一人でチェックアウトして食糧ファームへと向かった。

 食糧ファームは「自然区画」「料理区画」「生産区画」「適用区画」に分かれている。伝染病や災害などで食糧の供給が途絶える事のないよう、今は国内に六カ所のファームがある。教科書にも書いてあるし、ニュースでもよく見るので僕も覚えている。とにかく広いみたいで、七カ所目が必要かとかどこに作るかがたまにテレビで取り上げられている問題だ。

 「自然区画」はコピー元の食糧の原料を育てる場所で、ここが多分一番広い。たまにテレビなどで中がどうなっているのかは公開されているけど、山から海まで映像があるのでどう管理しているのかは謎だ。一般公開もされていない。
 「料理区画」は自然区画で出来た原料を基に料理を作る場所だ。一般開放されていて料理教室なども行われている。衛生管理はとても厳しく、勿論何も持って入れないし何も持ち出せないみたい。
 「生産区画」はアイナナを生産する場所だけど、ここは中がどうなっているのかは全く分からない。企業秘密というやつだと思う。秘密と言われるとちょっと気になる。

 今回見せてもらえるのは「適用区画」だ。アイナナが食糧をコピーする場所で、普段はここも一般開放されていない。今回は特別にここを見せてもらえるらしいので、とても楽しみにしている。

「第三アイナナファームへお越し頂き、誠に有難うございます。保全館ツアーでお越しのお客様とお伺いしております。こちらをどうぞ」
 食糧ファームの総合受付に着くと、特に何も受付をしていないのに僕に入場IDが渡される。フルネームと年齢、住所が顔写真付きで記載されたIDカードだ。
 今どき電子発行ではなくIDカードを渡されたと言う事は、施設内ではブラックベリーも起動できないし悪い事をしてもすぐにバレるのだと思う。

「施設内では全てのスマートデバイスがロックされて起動出来ないようになっているのでご注意下さい。緊急時にはロック解除コードが速やかに発行されますので、ロック解除後に当館からの避難指示をご確認頂きますようお願い致します。
 それでは案内の者がすぐに参りますのでお待ち下さい」
 受付の人がそう言った後、すぐに施設内を案内してくれる人がやってきた。フワフワと浮いてる丸い乗り物に乗っている。
 浮遊型移動装置のフワリだ。実物は初めて見る。二人乗りなので、これに乗って移動するのだろう。正直に言うと見学よりもこっちの方が嬉しい。

「保全館の学習旅行で参りました。今日はよろしくお願いします」
 頭を下げてフワリに乗り込むと、案内してくれる人の顔が見えた。何となく若い人を想像していたけど御老人だった。けど見た事がある。この顔はまさか…

「那珂川博士!?こんな所で何を…!」
 受付の人が大声を出しながら大慌てで走ってくる。やっぱり那珂川博士だ。アイナナ開発の第一人者。僕の頭は感動よりも驚きで一杯になっていて整理出来ていない。

「アイナナの見学じゃろ?ワシの方がお前らよりは適任じゃろうが。なめとんのか。未来ある若者とたまには話させろ。じゃあな」
 那珂川博士は受付の人の制止を振り切ってフワリをスタートさせてしまった。受付の人はどこかへと連絡していたけど、すぐに見えなくなってしまう。

「ふふふ。建前でも学習旅行じゃろ?いくらなんでもワシの事くらい少しは予習しとるよな?アイナナを造った那珂川じゃ。
 さっきの受付の奴のように那珂川博士と呼んでくれ。自己肯定感が上がる。今日は特別にお前さんを案内しよう。何か聴きたい事はあるか?」
 那珂川博士は機嫌が良さそうに言う。少しずつ状況が理解出来た僕は、アイナナについて知るこれ以上にないチャンスである事にようやく気付いた。ただ、準備が足りていない。

「僕の友達にお化けのアイナナがいるのですが、本人は自分がアイナナだと知っているのに自壊しません。どこかで死んじゃったりしないですよね?」
 僕はQ助の事を思い出しながら聴いてみる。Q助に会った時から気になっていた事だ。多分これからの勉強だけでは分からないと思う。

「これはこれは。予想外に面白い質問が出来るじゃないか。お化けのアイナナねぇ。納得が行ったよ。お前さんは何でこの子に取り憑いとるんだ?」
 那珂川博士がフワリの外の何もない空間に呼びかける。僕が状況を理解するよりも早く、Q助がそこに姿を現した。何だかバツの悪そうな表情をしている気がする。

『取り憑いてるってのは人聞き悪いぜ。俺様は相棒と一緒に旅をしているだけだ。そんな事より何で俺様が居るって分かったんだ?これまで一度もバレた事がないんだけどな』
 Q助にはいつものような元気が見られない。観念したような様子で博士に質問する。

「この食糧ファームは秘密が一杯じゃ。アポイントが無ければ虫一匹の訪問でもお帰り願っておる。当然見えないお客様も見えるようにしているのだよ。お前さんも然り。何が来るのか分からん世界だからな」
 那珂川博士は笑いながらQ助に答えた。Q助は『うーん』と言いながら顎に手を当てて考えている。

「ねぇ、取り憑くってどんな状態?」
 僕は気になっていた言葉の意味を聴いた。幽霊とかの話題の時に出る言葉だ。Q助は僕に何かを答えようとして口籠もる。その様子を見て那珂川博士が口を開いた。

「嫉妬、憎悪、劣等感、希死念慮…ねぇ…大変人間らしくて結構だが、囚われすぎると身を滅ぼすぞ」
 那珂川博士は僕に答えずQ助へと呼びかける。Q助は博士の方をキッと向いて少し怒ったような表情をする。

『俺様はそういう感情で相棒と一緒にいるわけじゃねーよ!そういうので生まれたお化けと一緒にすんな!俺様はなぁ!俺様は…』
 Q助は俯く。かすかに『また会いたいだけだ』と呟いた気がした。会いたい?誰にだろう。Q助の意外な様子に少し心配になる。

「お前さんはやり過ぎだ。その子は本当に何にも知らんのだろう。…龍介君と言ったな。そこのお化けが旅行のガイドとして付いてきているのだと思うが、君が保全館で当たったのは学習一人旅だ。ガイドはおらん」
 僕がびっくりしてQ助を見ると、Q助は俯いたまま少し顔を逸らす。そもそもQ助がプレゼントしてくれた旅のように話されている。これは本当に当たった旅行で、Q助の話は全部嘘だったの?
 少し慌ててしまったけど、今これを話してしまうとQ助の立場が更に悪くなりそうなので黙っている事にする。

「あとそのお化けにはどうも自覚が無いようだが、君に取り憑いているというのがピッタリの状況じゃ。この乗り物が動いているにも関わらず、そのお化けは君との距離を常に一定に保っておる。乗り物の外におるのにな」
 那珂川博士の言葉で僕は「うんうん」と頷き納得した。確かにそういう風に説明されると不自然な状態だと思う。わかりやすい。Q助はいつ僕に取り憑いたんだろう。

「で、どうする。このお化けアイナナをワシの方で分析すれば切り離せると思うんじゃが。ワシもアイナナの生みの親だからな。迷惑行為だと言われるのなら、そのお化けを放っておくわけにはいかん」
 那珂川博士は僕に問いかける。迷惑行為か。確かに保全館から見ればQ助の行動は少し迷惑なのだと思う。Q助は言い訳をするでもなく項垂れている。けど僕は…

「Q助が居た方が楽しいので連れて行きます。保全館には後で僕から連絡します」
 僕の返事にパッと振り向いて驚いた様子を見せているのはQ助だ。那珂川博士は満足そうに何度か頷いている。

「そうかそうか。じゃあ頼んだぞ。ワシも全てのアイナナに愛情を持っとるから嬉しいわい」
 那珂川博士はフワリの進路をゆっくり変える。Uターンだ。何故か来た道を戻っている。

「さっきの道を真っ直ぐいくと適用区画だ。お化け君を捕まえるために職員が待ち構えておる。まぁアイナナを食べ物に適用するのはな、ただでさえ飯が不味くなる光景だから見なくてええじゃろ。特に勉強にもならんしな」
 笑いながら那珂川博士が言うので僕も釣られて笑ってしまった。ひとしきり笑った後にQ助を見ると、ずっと何か言いたげだったQ助が話しかけてくる。

『相棒、すまねぇ。俺様は…』
 Q助は言葉に詰まっている様子だ。どう謝ろうか考えているのだろうか。

「ありがとうって素敵な言葉だよね」
 僕の言葉にQ助がキョトンとしているので僕は更に言葉を続ける。

「ごめんなさいは要らないよ。これから一緒に旅をするんだから、お互いありがとうって言い合おう。その方が良い旅になりそう」
 Q助とは友達でいたいと思っての言葉だったけど、ちゃんとQ助には届いたみたいだ。すぐに表情が明るくなる。

『…ありがとよ相棒!これからもよろしくな!』
 嬉しそうな顔で両手を広げてパタパタさせるQ助に僕は「うんうん」と頷いて返した。

「…そうそう。お化け君の探している人物だが、会うのは難しいぞ。何せ思想犯じゃ。必然的に簡単に人に会わせるわけにはいかんようになっておる。勿論透明になっても見つかる」
 那珂川博士は前を向いたままQ助に声をかける。ずっとこちらを見て話してくれていたので、何故だかはちょっとだけ気になった。

『爺さんは何でそこまで知ってるんだよ。さすがに怖いぞ。まぁ俺様も保全館でただ遊んでた訳じゃない。考えはあるぜ。相棒に迷惑をかけるつもりもねぇ』
 Q助は胸を張って自信たっぷりにそう言い放つ。良かった。いつものQ助だ。

「なんじゃ知っておったのか。つまらん。困り果てるお前さんを見れると思ったんじゃがな」
 那珂川博士は少し笑った後、咳払いして真面目な顔になる。

「あー…うむ。一個頼まれてくれんか。もし思想犯の中にお前さん達に興味を持つ人物が出てきたら、『ワシは元気にしとる。永遠にアイナナを愛している。お前は今も愛しとるか?』と伝えてくれんか」
 那珂川博士はやっぱり前を見たまま言う。恥ずかしいからという感じはしないので、言いにくい事だったんだろうなーと思った。

『おーっと?その情報じゃほぼノーヒントじゃねーか爺さん。もしそんな奴がいたら勿論伝えるけどよ。あとそれ質問じゃねーか?返答はどーするんだよ』
 Q助が大体思った疑問を言ってくれる。那珂川博士はちょっとだけ時間を置いてから、こちらに笑顔を向ける。

「まぁもしもの話じゃ。ワシもそいつがそこにいる確証はないしな。もし居たら必ずお前さん達に声をかけるじゃろ。返事はお前さん達が聴けばええ。さ、着いたぞ」
 気付いたら入り口に着いていた。僕とQ助はフワリから降りて那珂川博士へ頭を下げる。那珂川博士は「要らん要らん」とでも言いたげ手を振った。

「ここの職員と保全館には上手く言っておくから安心して旅を続けるとええ。あと質問の答えじゃが、田沼教授の書いた『避死機構総論』を読むと良い。ブログだが面白く書いてある。死を避けると書いて避死じゃ。良い旅を!」
 そう言い残し、那珂川教授はフワリに乗って颯爽と去って行った。質問の答え…?僕は少し考えて思い出す。Q助が死なないかどうかを最初に質問していたのだった。
 Q助が居た方を振り返ると、既に見えなくなっていた。誰かに見られる前に消えたのだと思う。避死機構。ホテルで調べよう。

◻︎七日目
「自律可変型総合生活支援機i7型はアイデンティティの崩壊により自壊する」
 個我を持つ生物に適用するにあたっては著しい欠陥と言わざるを得ないこの課題は、那珂川博士から発表された直後から大いに世界中を悩ませた。
 私もそうだ。同期の仲間と徹夜で「あーでもないこうでもない」と熱い議論を何度も交わした。意見が分かれて長年の友人とも喧嘩別れになる事もあるくらい、私は燃えていた。

「あー、この間のアレな。もうとっくに直したぞ。いつまで過去の問題を話しとるんだ。暇なんだなお前さん達は」
 発表から一カ月後の那珂川博士の言葉だ。さすがの私も彼を心ゆくまでブン殴る妄想を何度も頭の中で描いたよ。何度もな。けど彼が施した対策は興味深いものだった。

「避死機構」
 文字通り死を避ける機能だが、これは簡単に分けて二つの役割を持っている。
 
・一つ 自身が自律可変型総合生活支援機i7型である事を忘却する役割
・二つ 自身が自律可変型総合生活支援機i7型である事の認識を阻害する役割

 上記二つの役割を避死機構に持たせる事により、那珂川博士は自律可変型総合生活支援機i7型が個我を持つ生き物に適用されたとしても、自壊を防ぐ事に成功している。

 端的に言えば記憶の刷り込みだ。自律可変型総合生活支援機i7型のアイデンティティが崩壊しないよう、記憶と認識を操作している。
 正確に言えば自身が自律可変型総合生活支援機i7型であると疑わないように操作しているわけではない。自身が唯一無二存在である事を疑わないように記憶を操作・誘導している。

 極端な例えをするのであれば、自身がオリジナルの存在であると強く思っていれば、理論上自身が自律可変型総合生活支援機i7型である事を知っていても構わないという事だ。何者かを模倣している以上は、いずれ自身の正体を知る可能性が高いので難しいとは思うが。

 那珂川博士が信じがたいレベルの秘密主義者であるため、具体的な手法は何一つ分かっていない。だが結果を見れば上手くやっている事だけは分かる。
 
 何はともあれ問題を解決したなら一言あっても良いのではないか?いや、言うべきだろう。こちらは喧嘩別れした友人と今も連絡を取れずにいるんだぞ。

 那珂川よ、頼む。一発殴らせてくれ。

 どうやら有名な教授のブログだったようで、コメント欄も多くの共感の声で溢れていた。那珂川博士はどんな気持ちでこれを読んだのだろう?と一瞬考えたけど、きっと楽しんで読んだに違いない。僕はその様子を想像して微笑んでから欠伸をする。食べ過ぎたのか少し眠い。
 
 今日の夕飯は揚げたての天ぷらがお代わりし放題だった。エビ、イカ、ホタテ、キスなどの海の幸や、鶏やカボチャ、ナス、マイタケなどたくさんの種類があったので嬉しかった。ほとんどエビとキスばかり食べたけど。
 変わった色をした塩が何種類かと美味しい天つゆがあったので、パクパク食べていたら天ぷらを運んでくる人に感心されてしまった。

 そんな感じで夕飯が美味しすぎたのが悪い。Q助も出て来ないので、眠くなるまで田沼教授のブログについてのんびり思考を巡らせる事にした。
 僕はホテルの部屋にあったロッキングチェアに座り、目を瞑りながらQ助について考える。

 Q助はどう考えても可愛すぎる。Q助は自分を死んでお化けになったアイナナと言っていたけど、Q助の言う通りにアイナナがお化けになっても、きっとあんなに可愛くはならない。ああいうお化けのキャラクターを適用したアイナナじゃないかな。

 頭の中でQ助を改めて思い浮かべる。目がとても大きい、よく見るタイプの白い一頭身のお化け。とても短い手はあまり何も掴めなさそうな形をしている。常にフワフワと浮いていて可愛い。やっぱりよく見るタイプのキャラクターとしてのお化けだ。

 もし仮にキャラクターを適用したアイナナであれば、賢いQ助ならとっくにその答えに辿り着いていてもおかしくはないと思う。なのになんで何も知らない様子なのだろう。
 答えは単純。恐らくこれこそが記憶操作ってやつなのだと思う。自分がアイナナだと気付くことが出来ない。それは少し怖い事だ。
 けどQ助は自分がアイナナだとは知っているから…多分、僕はQ助に長く生きていて欲しいなら適用元のキャラクターを見せてはいけないのだと思う。

 考えがまとまった所で目を開け、一息つく為にベッドに寝転がる。僕はあの時に文彦のアイナナ探しをやっていなかったら、きっと今頃自分もアイナナじゃないかって不安になっていると思う。
 けど怜ちゃんは自分がアイナナかを疑う間もなく溶けてしまった。あんな悪魔のような遊びはもう広がらないで欲しいと、心から思いながら僕は目を瞑った。


『おはよう!昨日寝る前に歯は磨いたか?』
 Q助が朝から布団の上をパタパタさせながら声をかけてくる。いつも歯の心配をしてくるけど何でだろうか。
 そんな事よりQ助がカーテン全開で朝日を浴びているので、消えてしまわないかと少し心配になった。

「…昨日は夕ご飯の後に磨いたよ。おはようQ助。光を浴びてるけど大丈夫?」
 僕の言葉に一瞬驚いたような顔をした後、Q助は得意気な笑顔を見せる。

『おーっと。俺様が太陽光で成仏しちまうと思ったのか?心配は無用だぜ相棒!っていうか初日も外にいただろ?俺様は光属性のお化けだ。日の光は効かねーよ!』
 ウインクしながらくるくる回るQ助。本当に元気そうだ。僕は一安心する。

『今日はどこに行くか分かってるか相棒!海だぞ!美女もナンパ出来るし最高にハイになっちまうよなぁ!』
 Q助はいつの間にかサングラスを掛けている。何やら南国風のダンスもしているので、かなり楽しみなのだろう。けど僕は溺れる夢の事を思い出して少し憂鬱だ。

『なんかあまり気乗りしてない顔だな相棒。俺様はカナヅチに泳ぎを強制するタイプじゃないから安心しろよ!』
 鋭いQ助は僕の様子を見て斜め上のフォローをしてくる。心配をさせてしまって少し申し訳ない気分だ。一緒に海に行くのだし、Q助には話しておいた方が良いかもしれない。僕は憂鬱な理由を話す事にした。

「僕さ、多分小さい頃に溺れた事があるんだよね。凄く深かったから多分海だと思う。それを今でもたまに夢に見るんだ」
 我ながら「多分」が多い。夢の事を思い出しながら僕が話し出すと、Q助は踊るのをやめて聞く体勢になってくれた。

「ただ、僕ははっきり溺れた記憶があるんだけど、お母さんもお父さんもそんな事は無かったっていうんだ」
 そう。僕は確実に溺れた事があると思っているのだけど、お母さんも純一も首を傾げて否定していた。何かを隠しているような素振りもなく、今回だって海に行く事に強烈な反対をして来なかった。

『うーん、相棒よ。一般論で悪いんだけどさ。そんな大事件、仮に相棒が忘れても親は忘れねーものだろ』
 Q助の言う通りだ。僕も何度もそう思っている。だとしたら夢の中のリアルな息苦しさや絶望感は何なのだろうか。
 
『人間の脳ってのは結構いい加減らしくてよ。飛べないくせに空を飛ぶ夢を見る奴もいるらしいんだ。体験してない事も夢に見るって事。
 ただ、息苦しさは寝てる時に実際感じてるんだと思うぜ。それで息苦しい=溺れてるとか頭の中で変換しちまってるんじゃねーかな』
 予想外にちゃんと考えてくれたQ助の言葉に反論出来る余地はない。きっとそんな所だと思う。
 息苦しさは実際にあるかもしれないのか。それがどこから来ているか少し気になる。溺れる夢を見る日に何か法則性とかあったかな。

『今日は一階の桔梗の間で朝ご飯だ!食べた後は歯を磨くんだぞ!』
 そう急いで言うとQ助は姿を消してしまった。姿を消すタイミング、よく分からないな。僕は身支度を整えて桔梗の間へと向かった。

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