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粛々と運針

命とは何だろうか。人生とは何だろうか。

『粛々と運針』という舞台を今日3月24日に鑑賞した。
特にこの舞台が見たいとか、そういう動機ではなかった。ただ、加藤シゲアキが出演するというだけで、この舞台に申し込んだ。

まず、入場した時の演出に圧倒された。
雨が降っているかのように、そしてなにかを絡ませ、しがらみになるかのように舞台上に糸が設置されていた。
同時に胸が苦しくなるような、圧迫感を覚えた。

舞台のパンフレットを読んで開演を待っている時、パンフレットに載る幾つかの台詞に疑問を抱いた。

そしてついに、定刻を迎え、幕が上がった。

2人1組、3組のそれぞれの話。
父を亡くし、母も病床にいる2人の兄弟。
結婚して、お互いの希望を叶えた夫婦。
糸を紡ぎ、縫う年の離れた女2人。

関係のない3組それぞれが、抱えた問題に対して話を進めていく。
うまく話が噛み合わず、喧嘩になる。

そこで浮かび上がってきた問題、それは「命とは、人生とは何か」。

結果的に繋がりの見えなかった3組は、交差し、同じ問題にたどり着く。
全ての問題が解決しないまま閉幕した。

後味は正直よくない。かといって悪くもない。
すっきりしなかったからこそ考えさせてくれるような、そんな舞台であった。

さて、今回書きたいことは、「命とは、人生とは何か」ということである。

望まない妊娠をしたかもしれない嫁と、それに対して楽観的な夫。
母の尊厳死について諦めきれない兄と、許してやりたい弟。

授かった命を中絶するのは命を大事にしないこと。
子供によって母となる嫁が自分の人生を我慢しなければならないことは嫁の命を、人生を大事にしていると言えるのか。

生きているとは何だろうか、植物人間の状態で生かしてあげることは生かす側のエゴではないのか。
自分らしく人生を生きられなくなった時、カラダは生きていてもココロは生きていないのではないか。

正解はない。
だからこそ自分の問題として考えなさいと言われているような気がした。

私はわがままだ。自分の生きたいように人生を生きている。
彼氏はいる。結婚もいずれしたいと思う。子供も欲しいという。

私自身は子供が欲しいかと言われれば微妙である。
いてもいいし、いなくてもいい。と思っている。
しかし実際は、現実味がわかないし、深く考えたことはない。

子供ができることで、趣味の写真やサッカー観戦は難しくなるかもしれないし、まだ目指してもいないし決まってもいない仕事もキャリアアップが目指せないかもしれない。
反対に、子供がいれば毎日子供と一緒に楽しく元気に生きられるかもしれない。賑やかな毎日を過ごすこともできるかもしれない。

すべて「仮定」の話だ。

子供を産んで、子育てできません、だから、殺します。
これは許されない。他のことを放棄することができても、子育ては放棄できない。

だからこそ、大きな決断となる。
もちろん自信はない。見本となる親もいない。
わからないことしかない。

その状態でどんな人生が最適かなんてわからないし、後悔するかしないかなんて決められない。

1つ、人生について思っていることがある。

どんな選択をしても、どこへ行っても、必ず楽しく、そして幸せに生きられる道がある。

そう考えている。

どうせ人生に最適解などない。

今通っている大学に行くことになったのだって、想定外の出来事であった。
第一志望ではないし、受験しに行くまでどんな大学かも知らなかった。

それでも今、私は自分の人生を謳歌していると言い切ることができる。

どの場所でも楽しみを見つける才能と、努力。

これがあれば自分らしく、生きることができると思う。
私たちは、あくまで、自分のために生きている。
人のために生きているのではない。

自分の中で幸せだと思えることを常に何か持っていれば、それだけで生きる理由になると思う。

自分にとって、生きる意味とは何か、どうやって生きていくか。

人間として、知能を持つ動物として、そして、意思を持つものとして。

常に考えていかなければならないと思う。

そして、同時に、死についても考えなければならない。

私の1番嫌いなことは、死について考えることである。
血液がサーッと引いていく気がするし、息ができなくなる。苦しくて嫌なのだ。

しかし、誰にでも死は訪れる。

どのように生きるかと同時に、どのように死にたいかについても考えていく必要があると思う。

私は苦しみに耐えてまでやりたいことがあるうちは、死を選択しない。
自分の満足いく人生を送れた時に初めて、

死んでもいい。これ以上生きる必要はない。

と思えるのだろうと思う。

今はまだ、やりたいことに満ち溢れている。
やっぱりまだ、私は死ねない。

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