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Fラン大学生が一から現象学を学んでみた~これが現象学だ①~

 今回から谷徹『これが現象学だ』を読み、学んだ部分を少しずつ書き出してみます。とりあえず序章と一章まで読みました。全体の感想としては、現象学が如何に誕生したのか、その背景とフッサールの姿勢を知れてよかったです。早速ですが、内容について重要な部分に触れながら話していきたいと思います。

序章:序章の主要なテーマは「なぜフッサールが現象学の成立を目指したのか」と「フッサールの現象学に対する姿勢」という部分ではないかと思います。彼は当時、学問全体が危機に瀕していた事を非常に憂慮していました。その危機とは学問が基盤から離れ、抽象的で空虚な「理論=理屈」になっていた事です。彼はこの危機を脱するために基礎に近づく、つまり始原「アルケー」を追究する為に現象学を成立させようとしたのです。それ故、我々は彼の足跡を辿る事で、学問の意義を探求しなければならないのかもしれません。うちの大学でも資格試験が流行っています。その一方で、学問的学習はどこか空虚で、疎かになりがちです。「今まで遊んでいたやつが何を言うか」と思われるかもしれませんが、空虚になった学問が必ずしも打ち捨てていいものであるとはならないと思います。だからこそ、それを証明する為にも現象学を学ぼうという気概が身につきました。次に、彼は「自分自身で考える人」と「ともに哲学する」という二つの言葉を大事にしていたそうです。この二つは(特に前者において、フッサールの独我論的性質をみて取れるため)相反するものだと認識されがちですが、自分自身で考えるという思考法で、全てを定めてしまうとある学問を通して事象を捉えるより、事象そのものを覆い隠す傾向は無くなるかもしれないが、自分自身が事象そのものを覆い隠す傾向があるので、「自分自身で考える人」同士で「ともに哲学する」という言葉つまりは姿勢が必要だと彼は考えていたのです。その後のフッサールの人生を考えると少し儚い願いのようなものを感じました。以上が序章で主要な部分です。

一章:一章の主要なテーマは、従来の経験から「超越論的還元」された「超越論的主観性」とこれによって(諸現出によって媒介されるが)直接経験されると現出者。諸現出を媒介して現出者へ突破する「志向性」そして、この時間の経過である「直観経過」。そして、これ全体が基礎である事によって発生する「無前提性」ではないかと思います。かなり大雑把にまとめましたが、これを一から解説しようとすると相当な時間がかかる(実際何度も書いては消してを繰り返しました)ので、今回はこんな形でまとめました。

 フッサールは、学問の基礎学であろうという目的で現象学を作ったと思います。その為、経験する事自体にもメスを入れ、今私が目から見ている主観的な光景からしか経験しえない事を証明しましたし、経験されるものに関しても、ただ単に直接経験されるのではなく、マッハ(見出し画像の人物。マッハ数の由来)の議論を進めて、体験された現出=「記号」を媒介して現出者に向かって突破していく志向性を見出し、直接経験とはこの志向的体験であり、これが(現象学的な)意識と繋がることを表しました。また、諸現出はだんだんと経過していく点に着目し、直観経過という着想を得たのも、彼独特なものでした。これは「把持」「原印象」「予持」という概念に展開し、これらの働きが志向され、充実する事で、多様な諸現出が一まとまりの現出者として知覚されるという時間的な視点からも考察されていました。そして、フッサールが「理論家の地盤喪失の脅威」に対して(この辺は2節で語られていました)新たに基礎づけようとし、外部から眺められるといったような客観性の誤謬を中断し、この内部に還元するという「下」と「内」からの哲学である為に、「無前提性」という着想が出てきました。これは基礎づける為の哲学が諸学問・諸科学からの成果を前提にしてしまうと、循環論法になり、基礎づけが出来なくなるために出てきたものですが、この過激な思考にもフッサールの徹底性が垣間見えました。以上が一章で主要な部分です。

とりあえずこんな感じでまとめてみましたが、まだまだな部分が多いと思います。文章やまとめる能力が未熟だからと思いますが、見守っていただけると幸いです。とりあえず、今日中に二章を読み、またこういう形でまとめたいと思います。

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