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学校教育の外側

退職されたのち、次世代へ受け継ぎたいメッセージを私信にして、素敵な挿絵を添え、毎月発行して郵送していらっしゃる学校の先生がいらっしゃいます。先日、声をかけていただき、寄稿させていただきました。その原稿を公開します。

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わたしは、浜松市の外れで音楽教室を開いています。リトミックという、体を使って音楽を体験する教育法で教えていて、生徒は長い子だと1才から高校卒業まで在籍しています。親の次に長い時間を過ごす大人として、たくさんの親子がどのように子育てをし、どんなことで悩み、どのように成長するか見守り続けてきました。

のべ100名の子どもたちが在籍しているので、所属している間に、ある日突然、不登校になる子どもにも接してきました。不登校にはならないけれども、学校に合わなくて苦しむ子にも寄り添いました。学校が合わないから行かないという道も用意されていますが、わたしは、小中学校を不登校した子どもたちが通う高校で音楽を教えた経験から、「通えるなら、騙し騙しでもいいから、学校に行ったほうがいい」と考えています。 

なぜなら、現代の日本では、ひとたび学校からドロップアウトしてしまうと、ほぼすべての体験からシャットアウトされてしまうからです。不登校の子たちは、子ども自身や家庭環境に大きな問題があるケースは実際にはまれで、ただ「合わない」というだけなのですが、不登校している間に、体験によってしか身につかない社会経験が断絶されてしまうのです。これは、不登校の二次被害のようなもので、社会構成に問題があると思っています。

子どもが急激に変わるタイミングは4才で訪れます。それまでは自由気ままに、自分が思ったように行動していた子どもたちが、こちらからの働きかけに対し、まず周りを見渡し、ニヤニヤとして同調し始める。または、まるでロボットのスイッチをオフにしたように、無表情の能面を付けて気配を消してしまう。何年も同じ現象が同じタイミングで起こるので、なぜだろうかと自分なりに考察してみました。

子どもは、4才から社会性が発達し始めます。本当は、そのタイミングで社会活動のひとつひとつを「なぜだろう」と子どもなりに考え、失敗し、学び、体験を通して「人との関わりはこのように判断していくのだ」と習得していくのが理想だと思います。ところが先生は、1クラス30名もいる幼稚園の活動の中で、一人ひとり発達のペースが違うのに、いちいち疑問に付き合って待っていては、次から次とやってくる園行事で幼児を統率することはできません。そのうち、子どもたちは疑問を持つことをやめ、「先生が言う通りにしておけば叱られない」という処世術を身につけてしまうのではないでしょうか。

一方で、中には、それがどうしてもできない子が存在します。「なぜ一列に並ばなくてはいけないのか」などの疑問から解放されることができない子がいます。小学校に入ると、「なぜ覚えた漢字を何度も書かなくてはいけないのか」「なぜ休み時間に好きなことをしていてはいけないのか」、軽く流してその場では合わせておけばよいことに、どうしようもなく引っかかって、一歩も前に進めなくなってしまう子が、世の中には一定数、存在します。

この子たちを学校に存在させづらくしていることのひとつに、「親が、学校教育を中心に据えて子育てをしている」という現実があります。わたしは、これは教育のパラドックスであると感じます。本来は、子ども一人ひとりがどのような人格を持ち、どのように生きていくかという基準は、家庭教育に在るはずです。学校教育とは、日本国民にごく平均的に与えられる、教育の素材のひとつでしかないと思います。「親とは違う視点が加わる」だけのことです。

たとえば、小さい頃から理解して行動するまでがとてもゆっくりペースだった子が、小学校に上がると、書き取りの宿題に1時間以上かかってしまい、食事、風呂、就寝が軒並み遅くなり、次の日は青い顔で「気持ち悪い、学校を休む」と言う・・・。親は「だからサッサとやりなさいって言ったでしょう!」。そういうバトルが繰り広げられているのです。

わたしは、「この子がゆっくりペースということは最初から分かりきっているのだから、先生に言って、量を減らしてもらい、自分で生活をコントロールできるようにしないと、叱っても解決しない」と伝えます。でも、「量を減らすなんてとても言えない」、子ども自身も「みんなやっているのだから、自分も同じだけやらなければならない」といった具合に,完全に「ゆっくりペースの子ども自身」ではなく、「学校」が中心になってしまっています。

説得を重ね、親がようやく納得して、手伝ってあげ先生に進言することで、一気に解決することがあります。先生の方も、6才で初めて出会う子どもたちを理解するまでに試行錯誤が要ると思います。親子でバトルして、毎日宿題を完了させ、涼しい顔で提出していると、いつまでも「この子はゆっくりペースで、宿題が親子関係を悪化させ、子どもの自己肯定感を下げている」とはよもや思わないでしょう。

もし、親が「学校教育をどのように消化し、どのように活かすかという基準はあくまで個人にある」という態度でいれば、子どもは自分を見失うことはなく、筋の通った人生の一過程としてやり過ごし、大人になって花開くことができるのではないかと思います。
ただ、現実にはガチガチに枠にはめようとする先生もいるにはいます。ですが、その先生からよりも、子どもは「親がその先生についてどう考えているか」の方に影響を受けて人格を形成するのではないかと思います。

わたしが見つめた子どもたちは、2才か3才のころから、本質的なところは変わることなく大人になっていきます。どんな子も、強みも良さも最初から持っていると思います。問題を起こすとしたら、大人が大人の都合で余計な手を加えることが原因です。「こうしてやろう」「こちらへ従いなさい」とするのではなく、大人はみんな教育者となり、子どもが自分の良さを存分に活かし、大人になることを楽しみに成長できるような社会を作って待ち受けているにはどうしたらいいかと、日々考えています。

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