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子育ち

2007年、長男が小1、次男が年中児のころ、音楽教室のおたよりに書いた文章です。

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私は、「子育て」を意識したのはおなかにいるときだけで、生まれてからはすぐに「子育ち」という意識がとても強いです。方針としてそうしているというより、自然にそういう感覚が強かったのです。どのように育つのか、どのように成長するのか、注意して見ていて、興味を持ちそうなことをいいタイミングで与えてあげ、また様子を見るという繰り返しです。

「自立していく子育ちを見守って手助けする」という気持ちがとても強いので、たとえば乳児期~幼児期には、食事についてものすごく厳しくしつけた方だと思います。しつけといっても、行儀のことではなく(行儀は恐ろしく悪いです)、自分の体に敏感でいるよう、食欲とか満腹感、健康状態と食べたいもの関係、味覚、量の感覚について、自覚と自立を促しました。

それから、体調の感覚も自覚をかなり促しました。今では、病院へ行くと、全部自分で自分のことを説明します。いつから調子が悪く、いつ何を食べて、食欲はどうで、どこがどのように痛いか、その痛みは経験があるか、など。こないだ、長男の指の皮がむけて化膿したときに、「1週間くらい前にセメントでお団子を作って遊びました。でも、そのとき、下の子も一緒に遊んだけど、下の子はなってません。」とか言ってました。「し、下の子って?!」と私は爆笑。

今、「子育ち」を見てきてとてもよかったと思うことは、長男と次男の興味と得意なことが全然違う方向へ育っていることです。

長男は「読書」、次男は「お絵かき」、コレといったらこの子、というはっきりとした特徴があるので、私は日がな一日、そのことをほめまくります。ほめるというより、本当に「すばらしい」と尊敬しています。また、人付き合いについて悩んだら、「みんなの人気者」進ちゃんだったらどうするかな、と考えて参考にしたり、落ち込むことがあると「明日は明日の風が吹く」正ちゃんを見習ってみたり、今は、私が子供たちから教わったり、感動したりすることのほうが圧倒的に多くなりました。

子供は、生まれたときからパズルのピースをひとつひとつ探しては自分にはめていく作業をしているように思います。そのピースは、どんなに時間がかかろうと、子供が自分で探していくしかないと思います。たとえ大きすぎるピースを手にして困っていても、親が黙って見ていてあげると、子供は土台を大きくするなり、小さいピースに交換するなり、方法を見つけます。その方法がいくら間違っていようと、遠回りだろうと、親はやっぱり黙って見ているしかないと思います。最初のピースを親が勝手に見つけてきてはめこんでやると、もしかしたら二度と自分で探そうとしなくなるかもしれないし、子供にとってどんどん収まりが悪くなり、いつか最初のピースからすべてバラバラに崩れてしまうのではないかと思います。

子供が持ってくるピースがどんな大きさでどんな形であっても、それが子供にとってどうなのかは、お母さんには絶対に判断できないはずです。「えぇ~っ?そんなに小さいの?」「大きすぎるんじゃない?」「はまらないと思うよ。」という感想は、お母さんには小さすぎる、大きすぎる、はまらない、ということであって、子供のことではありません。それは絶対に区別してほしいと思います。お母さんがどう思ったか、子供は敏感に見ています。「私は否定していない」と思っていても、「顔が言っている」ことだってあります。日本語はほめることが得意ではない言語なので、とってつけたようなイヤミみたいなほめ言葉を言うくらいなら、「へぇ。」とか「ふぅん。」と言って、様子を見ていたらどうでしょうか。お母さんにもできないような、お母さんにも思いつかないような、すごいことがきっと起こり、心から子供を尊敬したり、感心したりすることができると思います。

お子さんのことをよく観察してください。

感情、知性、性格など、あらゆるピースがバランスよく配置されていますか。大きさや量は問題ではありません。バランスを見てあげてほしいと思います。判断の基準は、お母さんの主観だけでいいと思います。バランスを崩して、日々生きていくことにうろたえている子供、思考力と感情のバランスが悪くて常にイライラしている子供はいませんか。うちの子供たちは、先生や周りのお母さんから確固たるお墨付きをいただく「よい子」ではありませんが、ただ、単純に私は絶大な尊敬を寄せています。本当に、ただそれだけです。妙に自信満々に見えるかもしれないけど・・・。みなさんも、根拠がなくても子供に自信満々になって尊敬してあげてくださいね。

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これを読んで、心から驚きました。わたしが今言っていることと、まったく同じです。今から13年前のことです。

わたしは、誰かの言うことをきいて育児をしませんでした。徹底的に観察、観察、観察。そうして、起きたことに悩み、どうしたらいいか考え、調べ、勉強しました。

教室の子どもたちにも同じように接しています。我が子と教室の子が違うことは、わたしが観察したのち、どうするかという点です。我が子だったら、自分が思う通りに思い切ったことができる。

子育ては、そんなに立派なことをやらなくてもいいと思います。ただ、ほんの少し「まいっか」「変えたくないからいいや」「このままでもなんとかなるかも」と、「今だ!」という瞬間を逃すことによって、未来が変わるということではないかと思います。

そして、「今だ!」という瞬間を逃すか逃さないかは、親としての覚悟がどのくらいあるかだと思います。

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