見出し画像

三男が亡くなったあと

2010/01/04 普通の先生だったころ

来月配るおてがみ原稿を書こうと思って、ふと、昔書いたおたよりのwordファイルを開いてしまった。

どうやら2001.1月号が最初らしい。今読むと、ごくごく普通のピアノの先生という印象。というか、今の私から見たら「バカ!!バカ!そんなこと生徒に求めてどうする?」ってことのオンパレードだ。

特に、「家でちゃんと練習してこい」とか「お母さんが手伝って下さい」という意思がありありと伝わってくる。こんなこと考えてたんだぁ・・・、全然自覚はなかった。

きっと、自分の指導力の無さに苦しんでいたんだろうなぁ、と思う。一生懸命で、何も知らない、未熟な私がいっぱいだった。必死さは伝わってくるが、正直、全然面白くない。さぞかし、つまんないレッスンだったことだろう。

いったい、いつから今みたいな考えで今みたいなおたよりに変わったんだろうなぁ。。。と、変化のポイントを探してみたら、あった。2003年3月号。三男のきぃちゃんが亡くなった次の月のおたよりだ。明らかに自分の考えや発信方法がガラリと変わってる。

一番変わったのは、それまでは「先生として」どうあるべきか、自分の中で何かを作って、他の人も参考にして、保護者の視線も強く意識してる姿勢だったのが、「素の自分」でしかなくなっている点だ。「先生として」発信すべきかどうか躊躇している感じが全然ない。今の私の思いが凝縮されていて、その思いは今もひとつも変わらない。記念すべき2003年3月のおたよりはコチラ↓



先日は、お忙しいところを三男のために出向いていただき、本当にどうもありがとうございました。そして、私にもあたたかい励ましのお言葉をいただき、三男との別れを本当に悲しんで一緒に涙していただき、感謝の気持ちはひとことでは言い表せません。三男と、私の子育てをどれほどのあたたかいまなざしで見守られていたか、本当に思い知り、感謝の気持ちでいっぱいです。

三男の死因は、まったく不明でした。ただただ、眠っている間に心臓を止め、誰にも迷惑をかけずにひっそりと天国へ上って行きました。苦しまなかったことがせめてものなぐさめですが、元気な子がここまで育ってどうして死ななければならないのか、納得できないことの連続でした。

死亡宣告が出されたとき、たまたま三男を取り上げてくれた小児科医の先生だったので、「先生、なんで死ぬの?この子、危ない命を助けてもらって双子で生まれてきたんだよ!なんでここで死ぬの?!こんなに早く死ぬんなら、どうして生まれてきたの?!なんのために生まれたの?!」と、まくしたてていました。「どうして?」「どうして?」ということが頭から離れませんでした。

でも、後から「何をどう考えてももうきぃちゃんは戻ってこない。」と思ったとき、三男が生まれてからのことをずっと思い出すと、どうしても、この子は一年半という短い命しかもらわずに、その命の短さを知っていて生きてきたとしか思えないことが不思議と後から後から思い出されました。

また、私自身も、なにか母親の直感として、三男はなにかおかしい、何か未熟なままに無理して生きている子じゃないか、という懸念が心のどこかにあり、この日が来るのを無意識のうちに準備していたような気もするのです。

そう思うと、長い命がここで絶たれてしまったというよりも、そもそもこんなに長く生きられなかった子が、私に笑顔を見せるために、私との楽しい思い出を出切る限りたくさん持っていくために、必死で生き長らえていたように思えます。

三男が熱性けいれんを何度も起こしたのも、「お母さん、僕、こんな風になるよ。こんな風に死んでいくよ、でも、びっくりしないでね。」と私に心の準備をさせてくれていたんじゃないか、と今では思っています。

また、亡くなる2週間前に8日間入院して、私と24時間楽しい時間をたっぷり過ごしたのも、三男が自分でお母さんとの想い出を用意し、「お母さん、楽しかったよ。僕、お母さんだけと過ごせて嬉しかったから、たくさん兄弟がいてかまってやれなかったなんて思わないでね。」と悩みを消していってくれたように思います。 

三男は、本当に今にも起きそうな安らかな寝顔のような顔で、微笑んでいるようにも見えました。私には、一点の曇りもなく、ただ、「お母さん、ありがとう。僕、幸せだったよ。なんにも思い残すことはないよ。」と言っているようにしか見えませんでしたが、それがつらくてつらくて、「きぃちゃん、お母さんまだ何もしてないよ!何も苦労させられてないよ!これからだよ!!」と揺さぶり起こしたい気持ちでいっぱいでした。

自分の子にすら何もしてやれない、助けてやれなかった母親が、他人様の子供に何を教えられるでしょうか。三男の葬儀が終わるまで、私は何もかもやめる決意をしていました。 

一番つらかったのは、三男が一人ぼっちで火葬場へ向かうバスへ入れられたときです。甘えん坊でいつも指をチュッチュッと吸ってお母さんの後を追っていた三男が、一人ぼっち、暗いバスの中で「どこへ連れていかれるの?怖いよ、お母さん!!」という声が聞こえたような気がして、本当に一緒についていてやりたい気持ちでした。

道中40〜50分あったので、その間に、私がどういう態度を取ってやれば三男が安心して成仏できるか、そればかり考えていました。

初めてのところへ子供が一人で行くとき、不安で胸がいっぱいでしょう。そんなとき、私もおろおろとしていては、三男が余計に怖がる。「平気だよ、みんな行く道なんだよ、きぃちゃんがちょっと早かっただけだよ。」という態度でいてやらなければ、と思い、すごく堂々と釜の中へ送りました。

「きぃちゃん、お母さん、必ずあんたのこと探すから!どれだけ人がいても、一目で探して抱っこしに行くから!!」と約束して・・・。 

そして、和尚さんに「三男は今どこにいるんでしょうか。天国へ行く道を一人で行けるのか、怖くないか、心配で仕方ありません。」と聞いたら、和尚さんがこう教えてくれました。 

「即仏ですよ、お母さん。即です。これからはきぃちゃんが、お母さんどうしていますか、お元気ですか、と働きかけてくださる番ですよ。私はこのお通夜と葬儀に同席させていただいて、一歳半のお子様にこれだけの方が参列して涙してくださったことに大変驚かされました。こうして涙された方は、かけがえのない子供に、こんなつらいことが起こるんだ、大切にしなければならない、と誰もが思われたと思いますよ。その命の大切さを教えるために、きぃちゃんは小さな体にその役目を一身に受けて生まれてきたんですよ。そして、このつらい、つらいお母さんの役割を、厳しいけれどもあなたに任せよう、と天から任務を授かったのですよ。」 

それを聞いて、私は、いっぺんに今までもやもやとしていた疑問が晴れ、「私は教室を続けなくちゃいけない。」と思いました。

これからは私にしか言えない言葉があると思いました。どんな子供も、生きていればこそ、自由に子供のペースでその子なりに生きていくことを、私たち大人が保証してあげなくてはいけないと思いました。レベルや道を引いて指導するなんて、おこがましいことだと思いました。 

子供のときに、こうして身近な小さな命がなくなることを経験するのは、どれほど厳しいことか、どんなに不安で怖いことか、三男の死を知った子供たちに、皆さんが人の死についてあたたかいご説明をされ、気持ちが落ち着くのを願ってやみません。

そして、落ちついた頃に、是非、このきぃちゃんの小さな死を、どうぞ子供たちへ、命の教育としてお話してください。両親が、授かった命をどれほど大切に思い、それを失うことがどれほどつらいことか、人は誰でも尊重されて大切に想われて生きる権利があり、それを奪うようなことは決してしてはいけないこと、同時に自分の命も大切にしなくてはいけないこと、子供たちには三男がいなくなった寂しさ以上に、そのことを深く心に刻んでくれたらなぁ、と思います。 

良くない考えが頭に浮かぶこともあり、またこれからもあるでしょうが、とにかく三男はうちの子になって、次男と長男とにぎやかに過ごせて、お母さんから愛されて愛されて、同じ短い命であれば、これほど幸せな人生はなかったと思うようにしています。 時間ができると何も手につかないので、とにかく仕事を始めることにしました。これからもどうぞよろしくお願いします。そして、本当にどうもありがとうございました。 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?