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初デートでサイゼリヤに連れていく男の正体! 最近のSNSのヤバいうんこ化現象について

最近のSNSはヤバい。どれくらいヤバいかうんこで例えると、うんこを洋式トイレで座って済ますうんこ穏健派のぼくに、いきなり「うんことはッ!こうして出すものなのだッ!」と言って聞いてもいないのに違う排便方法を見せつけてきたり、あげくはひり出したうんこを投げつけてくるような感じ。

いきなり汚い例でごめんなさい。でも、あまりにも最近は現実にまったく何の役にも立たない争いが毎日SNS上で起きたり、いきなり「私はむっちゃ正しい立場から物申しますが、あなたは間違ってます!」とよくわからん凸をする輩が増えた。これは総じてうんこだろう、と。そう結論づけた。

当初、SNSは現実世界を変えるツールだった

ぼくも、Twitterが登場したての10年代当初は「これからはSNSで同じ趣味を持つ仲間と気軽に出会えたり、同じ価値を持つ者同士がめっちゃ集まることで世界を変えるんだ」とピュアに信じていた。

実際10年代、ぼくは主にTwitterとFacebookによって現実世界では決して会えない出会いもたくさんあった。色々と恩恵を受けた。また、現実では関わりのないひとがSOSを出しているのを助けたし、また逆もあった。ありがたかった。ほかにも世間的な話でいえば、震災の時はTwitterが情報のハブとなって救助されるひともいたし、また匿名で個人のつらい立場が拡散され、その組織のダメなところが正されることも多かった。このように当初、SNSは現実を生きるぼくらにそのまま役に立つツールとして活かされていた。

「差別や偏見を許さん」印籠を使って他人を攻撃する暇人登場

しかし、最近のSNSは当初のような自由さはあまり感じられない。息苦しさばかりがつのる。下手したら現実の発言よりも、気をつけなければいけなくなってきている。それは、ことさらひとの粗探しや言葉狩りをする動きが増えてきたことが一端のように思える。これはなにも日本だけに限った流れではないようだ。

21世紀になってから、人権意識が高まったことで、世界的に特定の民族や人種、宗教、性別、職業、年齢などに対して差別的な表現を避けるようになった。要は「差別や偏見は許さんぜよ!」と、みなが考えるようになったのだ。これをポリティカル・コレクトネス(通称ポリコレ)という。

この考え方自体は素晴らしいし、差別がなくなっていくことはいいことである。しかし、それが行き過ぎているのが、今、なのだ。過渡期だから、と言えるかもしれないが。

ハリウッド映画なんかもろにこのあおりを食らっていて、歴史モノの映画でも、明らかにこの時代のこの場所や地位に黒人やアジア人、女性はいないはずなのに、ポリコレに配慮しまくった結果、まったくリアリティのない映像になってしまっている。

ここまで製作側が配慮するのは、このポリコレという今の絶対正義をちらつかせて、恫喝するような輩が現れたからだ。単なるクレーマーはこれまでもたくさんいたが、今のご時世でこの絶対正義をバックにクレームを言われたら、反論の余地はなく黙るしかない。

そういうポリコレを背景に恫喝してくる輩は大体、本当に差別や偏見を無くそうと思って活動しているわけではなかったりするのだ。そういう立場やお気持ちを表明することで、一定の支持を得たり、お金を集めることが目的のように客観的には見える。いくら本人が崇高な発言をしようとも、だ。

この流れはSNSにもきた。ただ、SNSの場合、それで人を集めたり金儲けする小賢しいひとよりも、単に自分の日々のストレスを発散するために、絶対正義のポリコレを後ろ盾に、色々なひとに天誅を下している暇人ばかりが観測される。

自分が正しい側から発言していると思い込んでいるひとほど、他人の尊厳を平気で踏みにじるような残酷な行いをする。それでいて、言った本人は気分爽快、今日も悪を成敗、あーいいことしてスカッとするなあと思って夜はぐっすり寝ているのだ。こんなものは正義心の強いひとでもなんでもない。単に自分の気に入らないやつを現実のストレス発散のためにボコしまくっているだけだ。そういった不毛すぎる争いが今やSNSで毎日のように行われ、たまに流れ弾としてリプやdmがぼくにも来るようになった。

初デートでサイゼリヤに連れていく男の正体

ここ最近では「サイゼリヤでのデートで喜ぶ女の子の絵」が炎上した。

しかし現実問題、いうほどサイゼにデートへ連れていく男なんているだろうか?少なくともぼくの身の回りでは聞いたこともない。むしろ非モテ男子ほど初デートで気合い入れ過ぎて高いお店に連れていき、女の子から重いと思われてフラれる方が多いのではないか。

つまり、初デートでサイゼに連れていく男というのはそもそも存在しない、非実在男性なのではないか。もしくは居たとしても極めて珍しいケースといえるだろう。そんな現実にほぼいないような天然記念物的な存在をめぐって、非難する女も、ムキになって反論する男も、いい歳して正直アホかと思う。

そして、そういう不毛な争いをはたから見てるのは楽しいが、そんなものを嬉々として楽しんでいるぼく自身もどうしようもないアホなのである。

こんなの芸能人のスキャンダル同様、自分の人生に1ミリたりとも関係ないし、1ヶ月後にはまったく忘れているようなクソの役にも立たない論争だ。そもそも現実のサイゼリヤでは、そんなうんこな論争の素知らぬところで、サイゼのメイン層である若い夫婦と小さい子供たちが、みな安くて美味しいイタリアンを楽しんで幸せでいるのだ。現実を見よう。

行き過ぎたポリコレに限らず、SNSで現実になんら無関係で無価値で無意味な論争を見続けることは、やがて思想を拗らせてしまう。非実在男性や非実在女性が実際に存在するかのように錯覚し、男全体や女全体に敵意を持ってしまうひとも実際増えてきている。そもそも最近のSNSでストレス溜まるやり取り全般、これらをぼくは総じて「SNSのうんこ化」と呼ぶようにした。

サル園のうんこの投げつけ合い

しかし、今のSNSではそうしたうんこ投げつけ芸は一定の人気がある。なぜなら、それでフォロワーが増えるからだ。そして、そうやって集まったいいねやフォロワーの数を自分の人気や評価だと、これまた錯覚してしまっている。しかし、集まった人たちは檻の外の安全圏からうんこ投げつけ芸を観察して楽しんでいるだけで、そのひと自身と現実で仲良くなりたいとは思わない。有名だから近づこうとしてくるひとはいるだろうが、いざ困った時には誰も助けてくれない。

一昔前までは炎上でひとを集め、それで小銭を稼ぐやり方が流行ったけど、今は普通のことを言う、いいひとの方がリアルの評価をかせいでいる。

たとえば、それを体現しているのが、あの2ちゃんねるの元管理人のひろゆき氏である。なぜならば、元々は便所の落書きとまで揶揄され嫌われまくっていた2ちゃんの創設者でありアングラ界に居たひろゆき氏が、今や「大学に行った方がいい」とか「資格は簿記が使えます」とかむっちゃ当たり前で堅実なことを学生たちに言って人気を博しているのだ。ひとを小馬鹿にして絡むという悪癖(そこがキャラクターとして愛されているのかも?)は変わらないから、一見エキセントリックなことを言ってそうに見えるけど、実際は普通のいいおじさんが言うようなことを言っているのだ。2ちゃんと共に過ごしてきたぼくからみたら、驚愕である。これは明らかにひろゆき氏の戦略だろう。

匿名で愚痴や悪口、他人に凸するためにSNSやっているひとの気持ちもわからないでもない。ただそれは、渋谷のスクランブル交差点の中心でうんこを垂れ流したり、投げつけたりしているようなものだ。当然、周りのひとは離れていく。それに最近はネットの誹謗中傷に対して厳罰する流れになってきているので、今はうんこ投げ合いのTwitterもやがては変化せざるを得ない。

むっちゃ当たり前だけど、うんこしてるところをひとに見せても得をしない。だからこれからは大人しく便器に座ってようをたそうではないか。

こんなこと言っておきながら、ぼくもたまにTwitterでうんこを漏らしていたので、その辺は自分も気をつけなきゃいかんと、ケツを引き締める思いで、SNS運用を改めようと、決意を新たにしたわけです。

韻を踏んで良いオチにした的ノリで、今日のところは終えようか。

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