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最果てのアレクサンドリアへ:ホジェンドの記憶

 ホジェンドという街がある。タジキスタン第二の街だ。ウズベキスタンとの国境から数十キロのところに位置している。国境を越えたすぐそこで、乗り合いタクシーを運転する男が交渉する隙も無いままに、いいから乗れ、と陽気に声をかけてきた。破裂しそうなバックパックを抱えて助手席に乗り込むと、ほどなくして後部座席が三人の男で埋まった。後部座席の男は「あなたの名前は何ですか」「何歳ですか」「出身はどこですか」と書かれた翻訳アプリの画面を見せてくる。二十一歳だ。大学生で、日本出身だ。そう答えると、彼は自らのパスポートを見せてきて、同い年であることを伝えてきた。彼の名前を上手く発音することができないまま、国境前にずっと並ぶトラックの車列をすり抜けて、乗り合いタクシーが走り出す。すぐに景色は中央アジアの乾燥した草原が広がるだけになる。まっすぐに続く道路の向こうには、薄い青色にかすむ山がそびえていた。
 しばらく車を走らせるが、家屋らしき建築物はほとんど見えない。しかし、道路脇には屋根がついたバス停が時折現れる。きっと時刻表らしき時刻表は存在しない国、バス停を使う人間ははたしてどれだけいるだろうか。そもそもこんな区間にバスは通っているか。よく見れば気持ちばかりの壁画や装飾が施されている。遮るもののない日差しは腕をじりじりと灼き、対向車が巻き上げる土埃の混ざった風が吹き込む。残り少ないペットボトルの水で渇く唇を潤し、フロントガラス越しの光景を再び眺める。SIMカードなんて買っていないせいで、ウズベキスタンの電波はとうに届かなくなっている。頼りは横で誰かと電話しながら運転する男だけだ。ホジェンドへの道は、まるで空にずっと続いているかのようだった。小一時間の道のりがこのまま終わらなければよいのに、と心のどこかで考えていた。

 私はこれまで十六カ国を訪れたことがある。タジキスタンは十カ国目だ。ウズベキスタンの首都であるタシケントから、一泊のエクスカーション先に選んだのがホジェンドだった。中央アジア最大級のレーニン像と、まるでモスクの壁のミニアチュールのような装飾をもつパンジジャンベバザール。この二か所だけで、私の魂を惹きつけるには十分だった。
 数年前、派遣のバイトで出会った女性と、仕事帰りに食事に行ったことがある。同じく仕事帰りで合流した彼女の夫は、タジキスタンの首都ドゥシャンベ出身で、タジキスタンは美しい国だと話した。私はラーメンを啜りながら、コロナ禍が終われば(果たしていつ?)タジキスタンに行きたいと考えた。派遣の期間が終わり彼女とは会うことはなくなったが、タジキスタンの入国スタンプが押されたとき、なにか約束を果たしたような、そんな身勝手な気分に浸った。
 都市が近づく。何もなかった大地に、次第に人工物が増えていく。時にはタジキスタン語で書かれた、あるいは印象的な容姿の大統領が写った看板が通り過ぎていく。市街地に入ると、ロードサイドに並ぶ車屋や独特の壁面装飾が施された集合住宅で一気に視界が賑やかになる。特に変哲もない中央アジアらしい光景なのだろうが、これまで乾燥した大地を走ってきたせいなのか、緑があまりにも鮮やかに映った。未だシルダリヤ川はその姿を見せないのにもかかわらず、彼のもたらす肥沃さが、すみずみまで染み込んでいるような。さらに車を走らせるうちに、やっと悠々と流れるシルダリヤ川が姿をあらわす。恵みの水を湛えるシルダリヤ川の両岸に広がる街は、かつてアレクサンドリア・エスハテと呼ばれた。「最果てのアレクサンドリア」という意味だ。武勇にすぐれたアレクサンドロス大王は、ソグド人に囲まれたこの地までやってきて、"最果ての"街を建設した。彼はシルダリヤ川の水源である天山山脈のことを夢見ただろうか。タクラマカン砂漠のことは知っていただろうか?広大な版図を達成してもなお、見ることのかなわなかった「東アジア」へとつながる大地を。

 ところどころに唐突に現れる"権威主義的な"オブジェや、鮮やかな壁画で彩られている集合住宅(この国がソ連であったとき、それはきっと希望や喜びの象徴であっただろう)に見惚れているうちに、乗り合いタクシーは街の中心部で停まった。運転手に十ドルを渡す。まだタジキスタンの通貨ソモニを手に入れていないのだ。ウズベキスタンも同様だが、自国の通貨への信用が薄く、宿泊費の支払いやタクシーもドルで支払うことが多い。大通りの分岐点にある小さな公園には、兵士が象られた記念碑が立っている。しばらく眺めていると、先ほどまでタクシーに乗り合わせていた彼がやってきて、再び声をかけられた。彼はウズベキスタン出身で、何度もタジキスタンを訪れたことがあった。案内してくれるという。断りきれず彼のあとを着いていくと、バザールの建物の前に広がる露店でバナナを一本買ってくれた。露店の多くは果物や雑貨を売っているが、子供向けに小さなメリーゴーランドのような遊具も出てにぎわっている。並ぶ果物はどれもみずみずしく、買い物に訪れた女性たちが身にまとう花柄のワンピースと相まって、はっとするような彩りと豊かさがそこにあった。あるいは、あるように見えた。シルクロードだ。
 かつてはこの地もシルクロードの要衝であり、はるか東の西安から敦煌へ、ホータンあるいはトルファン、クチャ、カシュガル、そして肥沃なフェルガナ盆地、そしてさらに西域へ、キャラバンが膨大な富を運んでは行き来した。物理的な富に限らず、きっと精神的なそれも運んできただろう。今はもう移動に駱駝は使われないし、パスポートを持ち、飛行機で数時間眠れば越えられてしまうような距離だ。しかし、シルクロードのもつロマンはこれからも人々を惹きつけるだろうし、私もまたシルクロードに思いをはせた一人なのだ。シルクロードの名残のひとつが、このバザールだ。細い階段をのぼって二階の回廊へ出れば、バザールの中を行きかう人々が見える。あまりにも美しく彩られた外壁を間近で眺める。この建物がつくられた一九六四年は、私の父が生まれた年だった。ソ連の崩壊、タジキスタン内戦、確実に横たわる貧困、この美しいバザールはそういったものの背景であり続けたということだ。
 ずっと重いバックパックを背負いっぱなしだったせいで、肩が破裂しそうだ。一度宿に荷物を置きたかったので、案内してくれた彼に別れを告げると、今度は露店で両手にあふれるほどのぶどうを買ってくれた。一人では食べきれない量だ。

 バザールの近くのB&Bに荷物を置いて再び散策へ出ると、今度は迷路のようなバザールの奥深くまで入りこみ、気が付けば裏手の通りに出ていた。シャシリクを焼く煙が路地いっぱいに充満している。この街を訪れる旅行客は多くはないらしい。東洋人はなおさらのことで、当然どこか注目を集めているようですわりが悪い。しかし、そこにはあからさまな異物としての視線はなく、ある程度「放任」されているような感覚があった。バザールの横のモスクの後景には、青く淡く霞む山脈が横たわる。無数の鳥がいっせいに羽ばたく。散策に疲れ、バザールの端の店でコーラを飲む。宿に戻ると、久々の一人部屋には心地の良い風が吹き込んでくる。夜まで数時間まどろんで、夜食に訪れた店では、店員に注文の仕方を教えてもらいサモサとトマトと牛肉のスープを注文した。スープはびっくりするほどおいしかった。

 翌朝、少し寝坊してB&Bの共用部へと出ると、朝食が用意されていた。目玉焼きとパンと果物だ。宿のオーナーに頼み、タクシーを呼んでもらう。ホジェンドではUberもYandex Taxiも使えない。電話でタクシーを呼ぶサービスが普及しているらしい。しばらく待ってやってきたタクシーの運転手に、「レーニン像に寄ってからソグド民族博物館へ行きたい」と伝える。彼からすれば、レーニン像をわざわざ見に行くような東洋人は理解しがたい存在であったかもしれない。結局五分待ってもらった。ソグド民族博物館の横には、シルダリヤ川の上空を渡るロープウェイの乗り場がある。ロープウェイに乗り込み、川の上に差し掛かったころ、風が強く吹きはじめた。おそらく一定以上の風速になれば減速する、あるいは停止するというしくみであろうロープウェイは、風が強くなるたびに何度も何度もその動きを止めた。数人しか座れないような小さな箱が、牛歩の歩みでシルダリヤ川の上空を滑っていく。ひどく揺れるたびに目をつぶるが、下界に広がる水面に吸い込まれるイメージはなかなか脳を離れてくれない。恐怖にもすっかり飽きたころ、やっと対岸へとロープウェイが到達した。笑顔で手を振る巨大な大統領が、建物の壁面で存在感を放つ。 
 ホジェンドからタシケントに戻る道程で、タジキスタンの出国審査はひどい列だった。日差しが照りつけ、今にも座り込んでわがままを言いたくなるような気温と土埃のなか、職員と通行客の口論を遠くに聞きながら二時間ほどが経った。やっと列が進んだが、自分の前にはまだ数十人が並んでいるように見える。もう少し耐える必要があるらしい。ため息をついたとき、先ほどから様子を気にかけてくれた職員が扉から出てきて、パスポートコントロールの建物内へ手招いてきた。同じく出国審査を待つ人たちが、扉の前で今か今かと順番を待っているのにもかかわらず。自分だけ先に行くことをためらっていると、周囲の人たちは何かを口々に叫びながら、「先に行け」というふうに私を押し出した。タジキスタン語でありがとうは何と言うのだったか。暑さのせいで、私の頭は上手く動いてくれなかった。

 私が世界で一番好きな街は、イスタンブールである。ホジェンドを訪れた夏、他にも多くの国、多くの町を訪れたが、それは変わらなかった。イスタンブールのもつ魅力は計り知れず、ボスポラス海峡を渡る船の風と汽笛を思うだけで涙が出そうになるほどだ。しかし、たった一泊のみ滞在したホジェンドでの記憶も、いまだ鮮烈な印象をもって輝きを放ちつづけている。きっと季節もよかったのだろう。仮に冬に訪れていたなら、これほど魅了されていただろうか。
 どこでも簡単に見つかると思っていた両替商やATMは、ホジェンドでは一か所しか見つけられなかった。仕方なく手持ちのドルのほとんどを両替したものだから、タジキスタンの通貨ソモニを余らせたまま日本へと帰って来てしまった。もう少し本腰を入れて探していたなら、ウズベキスタンで再両替できていたかもしれない。それをしなかったのは、タジキスタンの大地を再び自分の足で歩くことを希求していたからだ。
 ローマのトレヴィの泉では、訪れた多くの人々が後ろ向きでコインを投げる。再びローマへ戻ってこれるように、という願いを込めて。ローマを訪れたとき、自分も同様にコインを投げた。しかし、本当の気持ちをいえば、永遠の都ローマよりもずっとホジェンドへと戻りたいと私は願っている。後ろ向きにコインを投げるかわりに、数千円分のソモニを引き出しにしまいこんでいる。この文章を書くために、ずいぶんとホジェンドのことを思い出した。今日もまた、ホジェンドの美しいバザールを、そしてアフガンとの境目に横たわるワハーン回廊、遥かパミール高原を訪れる日を淡く夢見ながら、私は眠りにつく。

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