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22夏旅行記③ コソボで民族を考える、へんてこ首都スコピエ

1.プリズレンに行きたいだけなのに
 
 アルバニアから国際バスに乗って向かうのは、コソボ第二の都市、プリズレンだ。数日前からバルカン半島の天気はすぐれず、途中から大粒の雨が窓ガラスに打ち付ける。しばらく山間の急カーブが続く道を走っていると、異変が起きた。大型バスのトランクの扉が、走行中に突然開いた。バスの不具合であることは確かだが、このままでは荷物が車内から路上に放り出されてしまう。雨はなおも降り続け、車内がざわめき出すも運転手は気づかない。しばらくしてやっと、運転手が車を降りて扉を閉めにいった。再びバスは走りはじめるが、扉がもう一度ゆっくりと開く。まただ!
 最終的に自分の荷物が放り出されることはなかったけれども、出来る限りは自分の席にバックパックを持ち込もうと改めて思った。

 プリズレンが近づく。乗客の名簿とパスポートを提出するだけで、バスを降りることなく入国することができた。このバスはティラナからプリズレンを経由し、最終的に首都プリシュティナまで向かう路線だが、出発前に読んだ旅行記に「プリズレンの街中では降ろしてくれないため、乗り換えなければならないこともある」という記述があった。なのでチケットを買う時点で「バスを乗り換える必要はあるか」と聞いたところ、必要ないと返答をもらっていたため安心しきっていた。しかし、これがトラブルの種だった。

 バスがプリズレンの手前で止まる。地図を見ると、プリズレンのバスターミナルはかなり遠い。誰もバスを降りないから、さすがにここはプリズレンの停車場ではないだろう。しかし実際は、その高速道路を下りてすぐの小さな駐車場が、プリズレンのバス停車場だったのだ。
 バスはそのまま高速道路へと戻り、プリシュティナの方向へと向かっていく。やっと違和感に気づき、隣の女性へ助けを求めようとするが、ダウンロードしておいたGoogle 翻訳は日本語⇔アルバニア語では使い物にならない。必死に英語から翻訳してやっと状況が伝わり、女性はわざわざ運転席まで行って対応してくれた。当然だが戻ることは出来ず、途中の道端で降ろされた。ここでプリズレン行きのバスかタクシーを待てとのことだが、時刻は夕方、天気も悪い。しかも電波も相変わらずないし、バスが来る気配もないし、英語もできない。不安に耐えながらその辺を歩き回ってみる。このままプリシュティナに行き、どうにか宿を探してみるべきだったか?
 
 しばらくして、道端に停められた車から誰かが出てきて、声をかけられた。どうしたのか、と訊かれたので、つたない英語で必死に状況を説明してみると、その家族は今からプリズレンに行くという。見ず知らずの観光客を乗せていってくれるらしい。弟の見送りに来たらしく、車の中には姉妹が三人と両親が乗っていた(驚くほど全員美人だった)。正直なところ、言葉も通じないところで、女ひとりでヒッチハイクじみたことはリスクが高すぎるため、絶対にやらないと決めていた。しかし、ここで待って夜までにバスやタクシーが来る確証もなかったため、好意に甘えることにした。

 プリズレンまで向かっている間、一時やんだ雨がまた降り出してきた。街中では各所で水があふれており、歩くだけでズボンのすそがびしょ濡れになる。彼女たちのやさしさはこれで終わらず、街の中心部で降ろしてくれるだけで十分なのに、わざわざ大雨に濡れながら地元の若者に場所を聞き、タクシーも呼んでくれた。もう名前も顔もはっきりと思い出すことはできないが、彼女たちの好意は誇張なしに一生忘れないだろう。そして、彼女たちが住むコソボで、もう痛ましい紛争が起きないことを祈る。

プリズレンの中心部、山の上に見えるのは古城だ

2.「民族」の定義の曖昧さ、明瞭さ

 コソボ入りはトラブルだらけだったが、旅程全体にもトラブルは生じていた。あまりにもバルカン半島全体の天気が悪いため、コソボ観光のあとに予定していた北マケドニアのオフリド湖を、泣く泣く旅程から外すことにした。その分、プリズレンでは2泊することに決める。日本を出発してから一週間が経ち、少し疲れとストレスが溜まってきたころなので、ここらで休んだほうがよさそうだ。
 夕飯の調達も兼ねてホステルの近くの街を歩く。プリズレンは小さな街で、観光地はその中心部である橋とモスク、そして教会といった顔ぶれだ。最も有名な観光地であるシナン・パシャモスクは、シンプルな外観とはうって変わって、カラフルな色遣いで花柄やアラベスク、クルアーンの言葉、が描かれており、とても華やかで美しいモスクだ。この旅行の中で初めて入ったモスクでもあり、改めてこの場所がイスラーム圏であることを認識した。

一般的なモスクのイメージ(青っぽい?)とはかなり違うのではないだろうか

 人気のレストラン(そんなに美味しくはなかったけれども、サービスはよい)で夕食を取ったあと、水を買うためにキオスクに入ると、中にいた男性に突然「コロナ?」と話しかけられた。一瞬あっけにとられたが、すぐに「アイムジャパニーズ」と答える。「トウキョウ?」アルバニアでもそうだったが、コソボではより東洋人が珍しいのか、街を歩いているとかなり視線を感じた。
 二日目は疲れが出て午後まで寝ており、ホステルを出たのは15時だった。プリズレンにはカフェが多く、みなテラス席でおしゃべりに興じている。

 現在コソボは92%がアルバニア人、4%がセルビア人であるが、セルビア人は主にセルビア国境の街ミトロヴィツァ、そして飛び地状のセルビア人居住区に居住している。プリズレンも例に漏れず、そこら中でアルバニアの国旗が掲げられており、自国の国旗よりも多いのではないか、と思うほどだ。スーベニアショップに入ると、そこにも赤に黒の、アルバニアのシンボルである双頭の鷲が何羽も飛んでいた。
 また、街中にも双頭の鷲が描かれたモニュメントがあった。この形は、いわば「大アルバニア主義」の中で想定される、ギリシャ、北マケドニアの一部、セルビア、モンテネグロ、そしてもちろんコソボ、も含んだアルバニアの本来の領土の形だ。これはアルバニア人の居住範囲でもあり、コソボをめぐる紛争の種となってきた。いわば“イデオロギーの塊”のようなモニュメントが、街の中心部に堂々と立っているのだ。

プリズレンの市役所。アルバニアの国旗とEUの国旗が並んでいる。

 このように、とにかくアルバニア、双頭の鷲、といった具合のプリズレンの街にも、かろうじて残るセルビア正教の教会がある。世界遺産にも登録されているリェヴィシャの生神女教会だ。他の構成資産も見に行きたかったのだが、セルビアとコソボ間の緊張が高まっているというニュースがあったため、念には念をいれて取りやめておくことにした(国境の街ミトロヴィツァもそうだ)。両国間に何かあった際に真っ先に攻撃の対象となるのは、コソボで圧倒的マイノリティであるセルビア正教の教会だ。
 
 教会の周りの住宅街はいたって普通だが、建物の前には小さな交番がある。警察官が常駐しているようだ。このリェヴィシャの生神女教会は12世紀に建てられ、内部には美しいフレスコ画が残されているという。しかし現在は、建物自体は形を保っているものの、中に立ち入ることは出来ない。張り巡らされた鉄条網越しでも内部が荒れていることがわかり、壁には焦げた跡のようなものがある。屋根の一部は盗難の被害を受けている。2004年、コソボ紛争終結後に発生した最大の暴動で大きく破壊されたのだ。
 
 プリズレン自体は派手ではないけれども、美しい街だ。いくらアルバニアの国旗だらけといえども、にぎわう中心部を歩いている限り、そこには25年前に起きた紛争、虐殺とその報復といった血なまぐさく悲しい歴史を直接的に想起させるものはほとんど見受けられなかった。いま歩いている人たちの中には、コソボ紛争をよく知っている人たち、参加していた人たち、そして近しい存在を失った人も多いのだろうかと考えると、不思議な気分にさえなった。
 しかし、このリェヴィシャの生神女教会の破壊された様子、そして周囲の緊張感(もっとも、勝手に感じているだけかもしれないが)に、紛争は遠い過去のものではなく、住民にとってはずっと身近であること、いつ何のきっかけで再燃するかわからないものであることを、ただの観光客としての立場ではあるが、強く感じることができた。
 日本に生まれ育ち、いつも通り生活しているだけではなかなか理解するのが難しいが、人々を分ける「民族」という概念は、あまりにも曖昧であると同時に、強い危険性を孕んでいる。

ホステルで売っていたDEATH NOTEのピンバッジ。なぜ?

3.へんてこでチグハグ、しかし愛しい気もする

 プリズレン3日目の朝、ホステルを出て首都プリシュティナまで移動する。プリシュティナでバスを乗り継ぎ、次の国、北マケドニアの首都スコピエへと向かうのだ。プリシュティナは首都であるが、あまり観光する場所がない街だと言われている。ビル・クリントン通りや、独特なデザインの国立図書館など訪れたい場所はあったのだが、結局は乗り継ぎの時間の関係で訪れることができなかった。もう少し早くホステルを出ていればよかった。いつか訪れることができたらよいと思う。そのときは国境の街ミトロヴィツァにも。

 スコピエに到着したのは、プリシュティナを出てから2時間ほど後だ。スコピエ中央駅は丹下健三の設計で、中は薄暗くて明るい雰囲気とは言えないものの、宇宙船のような見た目はかっこいい。ホステルは市内中心部のオールドバザールの近くにあるが、スコピエの路線バスは乗り方が非常に分かりにくくて不便だ(しかし、バス自体はロンドンのような二階建てのおしゃれなものだ。すでにへんてこさが表れている)。1.5㎞ほどなので、仕方なく歩くことにする。しかし悪天候は相変わらずで、もうすぐホステルというのに強い雨が降り出す。

北マケドニアではキリル文字が用いられている。読めない

 びしょ濡れになりながらホステルに辿り着く。荷物を置いている間に雨は落ち着いたので、さっそく観光に出かける。ホステルの前の広場にはスカンデルべク像、そしていかにも旧共産圏といった雰囲気のモザイク壁画があった。

スカンデルベクにアルバニアとコソボに続いてまた会った

 着いた時からすでに実感していたが、このスコピエという街、とにかくへんてこなのだ。このぎょっとするほどへんてこで奇妙で、あまりにも独特な街の雰囲気を、どう伝えればいいのかがわからない。街の中心部には巨大な銅像がいくつもそびえ、いかにもフランスを意識した白い建物たち、仰々しい街灯がこれまた仰々しい橋の上に並んでいる。

 しかし、そんなスコピエ中心部には、人がいない。平日の夕方である程度は仕方ないのかもしれないが、本当に閑散としている。せっかく整えられた建物は落書きだらけ、橋の街灯も電球が切れたまま交換されておらず、立派な銅像のすぐ隣にはボロボロの建物が残されている。例えるなら、まさに寂れかけのテーマパークといった雰囲気だ。こんなに異様な雰囲気の街が、一国の首都なのである。今回の旅行では6ヵ国を訪れたが、その中でも最も奇妙だったのは、間違いなくこのスコピエだ。

中心部、フィリッポス二世の像のすぐ横

 「ヤバい……」と独り言を口にしながら、スコピエの最も大きな広場まで歩いてみる。さすがにここは豪華かつ立派なつくりで、アレクサンドロス大王の勇ましい姿が銅像としてそびえ立っていた。写真に写る手前の人間と比べればわかるだろうが、かなり巨大なものだ。周りは噴水になっていて、四頭のライオンが座っている。この広場から少し歩いたところには、アレクサンドロス大王の父フィリッポス2世のこれまた大きな像が立っている。
 しかし、スコピエのすごさはこれだけでは終わらない。スコピエには、なんと凱旋門もある。フランスのそれよりはずいぶん小さく、またレリーフもアルバニア仕様となっているが、明らかにパリを意識した作りだ。

かなりの中心部、文化エリアの一角なのに

 暗くなってきたので、ホステルの近くで夕食を取るために戻っていると、コンサートホールや美術館などが集まる文化的なエリアの中を通った。ビルの窓ガラスがバリバリに割れている。そして、もうしばらく歩くと、鳥が地面に横たわって、死んでいた。横の店のスタッフが鳥の死骸をちりとりに入れようとしていたことを、強烈に覚えている。ホステル近くの店でこの日もまたビールを飲み、ほろ酔い気分でホステルに帰る。アルバニアほどではないが、北マケドニアも物価は安い。

 次の日は晴れていた。本来ならば、前日にスコピエ中央駅で一日一便のバスの時刻を確認し、チケットを買っておくべきだった。仕方ないので、この日は早めに駅へ向かうことにする。ソフィア行きのバスは早くても15時発なので、午前中は前日残した場所を観光した。 
 ホステルの近くに広がるオールドバザールは、晴れた朝のおかげで賑わっていた。昨日の閑散っぷりはなんだったんだろう。めぼしい店を見つけることは出来なかったが、少し裏の方に入ると古い建物や民家が残されていて、バルカン半島らしい素朴な雰囲気がある。スーベニアショップでマグネットを買ったあと、屋台で90円くらいのキャラメルアイスを食べてみると、これがかなりおいしい。

顔怖っ

 アレクサンドロス大王広場の向こう側にはまだ行っていなかったため、マザーテレサ記念館へ訪れるついでに散策してみる。昨日は雨が降っていたせいで薄暗い雰囲気だったが、かなり明るく活気のある様子で安心した。道端に古本を売る屋台があり、そこでヴィンテージのピンバッジを買った。せっかくなので、60年ほど前の年号とスコピエという文字が入っているものにした。なんらかの記念品だろう。
 マザーテレサ記念館の中には、マザーテレサの実際に着用していたサリー、使用していたもの、直筆の手紙などが展示されていた。マザーテレサが生まれたのはスコピエだが、母親はアルバニア人であり、アルバニア、そしてコソボにもマザーテレサを讃える像や記念館が設立されている。ナショナリズムのシンボルとしても(言い方は悪いが、都合よく)利用されているのだ。

 中心部から駅の間に大きなショッピングモールがある。そこで昼食をとって適当に散策し、駅へと向かった。今日中にソフィアまで移動できるか、そして深夜に到着することにならないかが不安だったが、いざバスのチケット売り場に行ってみると、あっさりチケットを買うことができた。ついにバルカン諸国を抜け、ブルガリアへの移動だ。

 


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