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多様性と共通言語

地域のチームでソフトボールをする息子。
監督やコーチに怒鳴られて反発したり固まってしまう姿を見て、双方に対して「あーあ」と思う。お互い悪気はないけれど疎通を取るのがなかなか難しい。

コーチは概ね子供達の親より更に上の世代。
親だって全然違う時代を生きてきたのに、更にその上となったら、今の子供達とは、主食も違う、家の素材も違う、周囲の風景も違う、学校教育も違うし情報入手の手段も違う、ほとんどすべての環境が違うんだろう。
だから、普通の会話をしていたら、何も共通点がなくて外国人と喋っているのと同じくらい分かり合えない。コーチが言う言葉が最初からすっと入っていかないし、コーチの方もイライラするのは、こういう背景もある。
だがそこでスポーツは共通言語になる。
世代が違う多様性に富んだ人達が、ソフトボールなどのスポーツをやっていくと、同じように共感し、喜んだり憤慨したりして熱くなるようになる。いちいち言葉にして説明しなくても同じ瞬間に同じような感覚が湧き出て、汗をかいたり涙を流す。それは日本国内だけでなく世界中でも同じように。

多様性というタイトルを考えるにつけ、多様とは何か異なる部分があることなのかと思うと、どうしても、逆に共通性とは何かということが頭に浮かぶ。
私たち人間は、全く同じという人は誰もいないはず。一卵性双生児でDNA配列が同じであったとしても、別個の個体として生まれた以上は、同じ時間に同じ空間を占拠して、ぴったり同じタイミングで同じ空気だけを吸うことはできない。
人間であるという大きなくくりで同一種となっているだけ。
ということは、多様性というものは、もともと普遍的に存在していたのではないか。なんで今になって多様性が言われるようになったのだろう。

それは、このIT社会で、情報のやり取りが、全然違う環境でも瞬時に行われるようになったためかもしれない。もともと音声としての言葉のやり取りは、目の前の人間としか行えなかった。TVという媒体が出来て、様々な場所で同時に情報を得ることはできるようになったが、それは一方的だった。電話ができても、当初はおそらくある程度知っている相手としか会話することがなかっただろう。それがこの20年程度の期間で、背景の環境が異なる人たちが一斉に情報を得て、しかも、やり取りすることが可能になった。異なる背景の者同士が異なる環境で一つの情報を解釈すれば、それは多様な反応が出てくる。これが今言う多様性ということなのだろう。

隣の国というのは、あるいは隣の町というのは、私たちが思いを馳せていた以上に、異質なものなんだ。それを実感していく社会が、今の多様性の社会なのだろう。

国民性とか、宗教とか、徐々に理解され合うと、いずれは別個で主張していくことが難しくなる気がする。すると、この多様性を考えていった果てに、いつか地球は一つになっていくのだろうか。資源を皆で供給し合い、住みやすい場所・住みたい場所に個々が住み、お金や戦いによる奪い合いがなくなるのだろうか。
でも、人間は実態がある以上、たとえ言語や映像のやり取りが地球の裏側まで行ったとしても、体はそれほど広いテリトリーで動けない。すると、やはり目の前の触れ合える人達と共通言語を介して集合体を作っていくような気もする。ただ、この情報のやり取りの副産物として多様性を認め理解することが出来たことが、以前とは違い見えない世界にも思いを馳せられる人間社会を作っていく礎になるかもしれない・・・。

今後の社会の変容を楽しみに、とりあえず目の前のソフトボールをする息子とコーチを見守る。

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