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流れる現実・留まる思考

 この年末、悩みに取りつかれ辛い気持ちになったことがあった。そういう時、周囲の人の時間だけが無情にどんどん過ぎていくような気がした。
 現実ってどうしてこう、川のよう絶えず流れて、怒涛の勢いで来ては過ぎていくのだろう。鴨長明の方丈記の冒頭を思い出す。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」千年近く前に書かれた文章なのに、現代の私が覚える感覚を全く上手く表していると思った。

 世界が絶えず変化していくのに対して、人間の心というものは、同じ感情、同じ考えを繰り返していくようにできているから不思議だ。人間は記憶することに優れている。時間的にも空間的にも異なるところで生まれた複数の考えを統合することができる。同じストーリーの再現を喜び、些細な違いを発見することに目鼻が利く。流れに乗って頭を使わず反射のように行動している時は、それはそれで好調だ。でも人間はそれだけではいられない。立ち止まり考える。例えば、朝服を着る時、今日の天気、会う人や行く場所を考え、以前同じ服を着た日の事を思い出し、翌日以後の予定のことも想像している。それをしてきたから、道具を作り、道具を使い、今起こっていない未来の事に思いを馳せ、様々な便利を手に入れてきたのだろう。

 記憶し、比較したり統合したりする、この仕組みは、脳の発達の成果に他ならないのだろう。しかし、嫌なことがあった時にまで以前の類似感情を思い出すのは、時に厄介でもある。現実には一瞬の怒涛で過ぎ去った事を、私たちは頭の中で勝手に反芻し、その都度、負の感情まで一緒に繰り返してしまう。時には現実の時間に置いて行かれたように、自分の作り出した観念に取りつかれて、どつぼにはまることもある。それは流れていく現実とは異なる想像力の作った世界なのに。

 世界と一緒に流れ過ぎ去って行くだけでなく、記憶し、反芻し、考え想像るからこそ、私たちは文学を楽しめるのだろう。世界を深く味わうことができるのだろう。それは非常に幸せで快感なこと。けれど、それと共に手にすることになったのが、苦悩する心なのだろう。

 人間は、一人一人がそれぞれに独立して考え動くことが出来る。大海で群れを成す魚など、種として全体が自然淘汰に耐えらえれる仕組みを持っている(ように見える)生物もいる一方で、人間は個人単位で生き残る術を身に着けられているように感じる。個人単位でリスク回避し進化して生活していくために、この立ち止まる脳の仕組みが備わっているのだとしたら、悩みに取りつかれ行動できなくなることも本来の性であり、自然なことなのかもしれない。悩む理由色々を探しても、「それが人間故」としか言えないのかもしれない。
 もしかして、地球全体を外から見てみたら、この人類の一人一人バラバラに見える動きも、全体としての大きな生業の一部なのかもしれないけれど。

 悩みに取りつかれて辛くなった時は、その立ち止まる心を少し客観的に観るといいかもしれない。そして周囲の急流を感じてみるのもいいだろう。逆に、怒涛の現実の中に身を投じてがむしゃらに動いてみると、心を置いて離れていけるかもしれない。いずれにしろ、ほんの1日、数日、1年、という、人生ではほんの短い過去になるのは間違いないのだから。
 自分という想像力豊かな人間を否定するのはやめよう。辛い執着は、深く楽しむことが出来る能力ときっと結びついている。人一倍辛い思いができる人は、人一倍楽しむこともできるに違いない。

 この文章は平時に書いているけれど、また疲れた時に見直してみたい。もし渦中にいる人にとって不愉快なことを書いているようなら、改めて考察したい。

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