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◆小説◆海が鳴る部屋

薔薇を飼い始めたのは去年の7月からだった。去年の手帳の7月のページにあの仄暗い喫茶店の名前が記してあるから確かに7月だった。「薔薇」というのはその美貌に対する安直な名付けだったが、もう薔薇は薔薇としか思えない。
喫茶店で何を頼んだのか、どういう経緯で薔薇と会話を交わしたのか、今となってはすべてが曖昧だ。……いや、Kがいたな。Kが薔薇を呼んだんだ確か。お前に会わせたい子がいると言うから、またいかがわしい人間を連れてくるのだろうと思い、そんな野暮な遊びにはもうそろ飽きた方がいいとKに諭したような気がする。いやそれは別の席だったか。とにかくKが薔薇を呼びつけ、陰気な喫茶店で私たちは美しい青年を待っていたはずだ。
雨が降っていたと思う。なぜだか薔薇の肩口の雨粒を克明に覚えている。
薄灰のサマーセーターを着た若者が入ってきて、小さくKに声を掛け、私の横に座った。それが薔薇だった。重たい前髪も眼鏡も、青年の美貌を何一つ隠せてはいなかった。つまらなそうな表情も、美貌を飾り立てる額縁のようなものだった。
思い出そうと思えば案外思い出せるものだな。
Kは私のことをインチキ臭い抑揚を持って紹介していたが、薔薇の反応は乏しかった。ただ一瞬、私の部屋にある百号の油彩のことが話題に出た時だけ、瞳にすっと虹色の光が差した記憶がある。
薔薇は絵を見せてくれと言って私の部屋に来た。陳腐な符牒だった。Kは馬鹿馬鹿しい台本を編んでは私に差し出し、私もその台本に乗って幾度も佳人たちと三文芝居を躍らされた。別にそれでよかった。自分で考えて行動するよりも、Kに仕組まれた方がずっと心地よかったのだ。怠惰だった。台本は陳腐であればあるほどよかった。自分が選び行動したという傲慢な自負を抱かない方が都合がよかった。時には台本に反発し逸脱を図る佳人もいたが、どういう訳かKの手中にくるくると舞い戻っていた。
Kは最初から薔薇を飼わせる予定だったのだろう。薔薇は私の部屋に入ると、散歩から帰ってきた子犬のようにすっぽりとソファに収まって正面に掛けられた絵を黙って眺めていた。
絵には遠い街の海辺の小屋が、淡く濁った白と灰の重なりで描かれている。私が昔描いて、手元に残した唯一の絵。他の絵は画商であるKがすべて売った。
私は薔薇に何を話したっけ。ソファで口付けして服を脱がせている時も、薔薇は絵の中の小さな小屋と嵐が来る前の空を見ていた。泣きそうな顔だった。そんな顔をすると思わなかったから、私は少し動揺した記憶がある。どうしてそんな目をするんだと訊いたら、薔薇は唇を少し噛んでから言った。
「あれは僕がいた海だ」
薔薇の首筋の汗は、確かに海を知っている味がした。波の音が薔薇の奥で疼いた。溺れるように抱いているうちに、私もあの寂しい海を思い出した。
寂しい海は寂しい人間を呼ぶ。Kには遠回しにつまらないと言われた絵だったが、私は手放したくなかった。あの静かな海は私を待ってくれている。そんな驕りが私を慰めてくれていた。
薔薇は大学院で比較文学だかなんだかの論文を書いてるらしい。ふらりと出ていってはまた帰ってくる。気まぐれに肌を重ねると、波の音は一層近くなるような気がした。
夏は暑く短くて、桃を切っているうちに終わる。秋は何をしていただろう。薔薇の髪を洗ってやったり、美しいセーターを贈ったりしていたな、確か。冬は二人とも眠るように過ごしていた。絵の中の波音を聴きながら、冬眠する栗鼠たちのように。止まりかけた時間は甘美であった。薔薇は私の白髪を見つけては「兄さんはもうおじいちゃんになってしまうね」と悪戯っぽく笑った。薔薇は私のことを「兄さん」と呼んだ。昔、前世、それより向こう、私たちは海の近くに生まれた兄弟で、あの小屋で雷鳴を聴いていたのかもしれない。小さな膝をくっつけあって。「一緒にいたい」と口にすれば孤独が大きな化け物になってしまうから、黙って雷鳴を聴く。遠い雷鳴を。波の音を。風の音を。海鳥の叫びを。砂の鳴る音を。
やがて春が来てしまう。私たちは不安に怯えていた。不安を打ち消すために薔薇は花を抱えて帰ってくることが多くなった。春のびかびかと輝る光に負けないように、花を愛でては安全圏を確認しあった。私たちの脆弱な魂は、眩しい芽吹きの時に耐えられるだろうか。
薔薇はねだるように私に腕を回し、囁く。
「春を越えたら、海に行こうね」
果たされるかわからない約束をする。生存するためのおまじないだ。薔薇の指を握る。冷えていた体は徐々に熱を帯びる。海を思い出すように汗が滲む。
大丈夫、まだ嵐は来ないから。

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