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◆小説◆映ずる

Sが鏡に映らないのに気がついたのは、夏休み前、研究棟旧館のひとけのない階段の踊り場の大きな鏡の前だった。思わず「あ」と口に出し、鏡とSを何度も見る私に、Sは「体質なんだよね」と恥ずかしそうに笑って見せた。
「気がつく人はたまにしかいない。というか、ほぼいない。中学の時に近所に住んでた兄ちゃんと、高校の時の教育実習の先生くらいかな」
「家族は」
「気づいてないよ」
「大学にもいないの?」
「貴方が初めてだね」
さっきの初心なはにかみが、悪戯をする少年が見せる試すような笑みに変わっていた。



Sはいつの間にか私の部屋に住み着くようになった。私の部屋は安普請の狭いアパートだが、洒落てるように見せるためか、廊下と部屋を仕切る扉に等身大の鏡が貼られていた。内見に来た時に「広く見えるでしょう」と日に焼けた不動産屋が自慢げに言っていたのを思い出す。
もちろんその鏡にSは映らない。
Sは骨ばった肩を鏡に寄りかける。Sの少し反った唇や、僅かに灰色の混じる瞳が、鏡に映ったらどんなに美しいだろうと夢想する。Sは確かに実体がありながら、どこかが欠落し、存在が半分であるかのような人だった。
「なんでうちにいるの」
「貴方が寂しいと思って」
同級生に「貴方」と呼ばれるのはSが初めてで、何度もその単語を反芻しては身を深く沈める。
Sは作戦通りと言うような目をして、私に顔を近づける。
暗い灰色に私の顔が映る。



夏休みは長かった。
徒歩圏内のラーメン屋を全て回ろうと提案したが、意外と店が多いし金がかかるし、この暑さだし、と、早々に頓挫する。
「カップ麺なら買える」と言って、Sはバイトの帰りにいくつも変わり種のカップ麺を買ってくるようになった。Sがどんなバイトをしているのか知らないし、聞いたところではぐらかされる。
私は塾講師のバイトと読書とホラー映画に明け暮れていた。いつも通りと言えばいつも通りで、ただSがいるということだけが違っていた。
「名店」だの「本格」だの仰々しく書かれたカップ麺を2人ですする。
風呂に入ったりベランダで煙草を吸ったり、映画を観たりする。2時か3時になる。
「寝ようか」とSが言い、私のTシャツに手を入れる。Sの肩越しに鏡が見える。半裸になった私の影だけがぼんやりと映る。寂しいような気持ちがやって来たので、目を瞑ってSを抱きしめる。Sのしっとりとした少し冷たい皮膚。その中の肉。その中の骨。血液。Sの肉体を浮かび上がらせている細胞たち。
夏が終わったらどうなるんだろう。
口に出しそうになって、やめる。
Sの汗で指先が濡れる。



夏休みが終わる。
学生たちは一様にだるそうな表情を作っているが、どこかほっとしたような柔らかな空気が漂っていた。日常に帰って来れた安堵のようなものだろうか。
小さな冒険から帰ってきた子どもたち。
冒険の報告、武勇伝、友との再会。
その中にSはいない。



夏休みの終わりの夜、Sと私は近くの川沿いをぶらぶらと歩いていた。
「この夏は色んなことできてよかった」
「そんなに色んなことできたかな」
Sの急な思いつきで近くの温泉地に遊びに行ったこと。たまたま近所で花火大会があると知って、ほとんど部屋着のような格好で土手に座って花火を見ながら焼きそばを食べたこと。年寄りだらけの古本市に行ったこと。公開初日に行った映画が駄作だったこと。部屋でスパイスカレーを作ろうとして失敗したこと。
色んなこと。
「貴方が気づく人でよかったと思ってるよ」
「映らないこと?」
「そう。貴方は大丈夫な人だから。だから一緒に夏を越えられた」
「大丈夫ってどういうこと?」
「良からぬものをそのまま受け止める力があるってこと」
「良からぬって、」
言いかける私を包み込むように抱きしめる。何かが終わる予感が駆け抜け、ぞっと背すじが冷える。
「宿罪はどんな肉体をもってしても魂に張り付いているみたいだ」
また、はにかむような小さな笑み。離れそうになる体を引き寄せ、強く抱きとめる。
こんなことをしても行ってしまうのに。
静かに唇を合わせてから、瞳を見つめる。夜の光では私が瞳の中に居るのかわからない。ただ、Sの瞳は磨き上げた鉱物のように艶やかに潤んでいた。
私の瞳にはSが映るのだろうか。
私の顔をSの長い指が覆う。目隠しされる。
深い闇。
鼓動のような小さな音が聴こえる。音は徐々に大きくなり、近づく。祭囃子か異国の音楽みたいだ、と思った瞬間、目隠しは外される。
音は消え、目の前にSはいない。
もう会えないのだと知る。





恋人が鏡の前でメイクをしている。彼女の勤める高校の始業式で、今日はちゃんとして行く日、らしい。重ねられていくリキッドやパウダー。その過程を見るともなしに見ながら、ぼんやりと水出しのコーヒーを飲む。彼女が手を動かしながら言う。
「鏡なんてこの世になければよかったのにね」
「なかったら困るんじゃないの」
「鏡は本当を映すかのように振る舞うから嫌い。映らないものだってあるのに」
「それは哲学? 道徳? 文学の話?」
「この世の仕組みの話だよ」
彼女はメイクを済ませ、「不燃ごみよろ」と言い残して慌ただしく出かけて行った。
私は何かを思い出しそうになったが、ぼんやりした薄灰が脳にかかって思考を止める。
今日は在宅で仕事をして、その後は恋人に頼まれた家事をする。疲れて帰ってくる恋人に何を食べさせようかと考えているうちに時間が経った。
ぼやぼやしてないで歯を磨いて顔を洗おうと、重い腰を上げる。洗面台の鏡がなんだか少し汚れていた。うっすらと靄がかかったように。私の姿も何だかいびつに見える。クロスで磨くと、鏡は居住まいを正し、実直ないつもの顔を見せる。
ふと、鏡の中の私の頭上を何かが横切る。
ふわりとした軽い、羽衣のような。
まだ寝ぼけてるのかもしれないと、アイスコーヒーをグラスに注ぎ、窓を開けて軽くストレッチする。登校する小学生の声がする。隣家の柘榴の木が見える。

夏が終わる。

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