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「洗礼」

キリスト教では、人間は罪を背負って

生まれてくる(=原罪)とされています。

私の生家はクリスチャンで、

学校もキリスト教(プロテスタント)。

「日曜日は当然、教会学校」という

子供時代を過ごしていました。

礼拝や日曜学校をサボると「神様の罰」を

受けると思ってました。

今思うとバカみたいですが、当時は疑うことは

ありませんでした。

最初の洗礼は生まれた時に受けました。

Neptuneはその時の洗礼名です。

ご存知のようにネプテューンは

海の神(=ポセイドン)ですから

普通、キリスト教では異教の神の名を

洗礼名にはしないのです。

しかし私の父は海に関係する仕事(海事弁護士)を

していたので、嫌がる牧師に強引に命じたのです。

父はその時、息子の誕生を喜び、

かなり酔っぱらっていたと聞きました。

そして時は流れ…あの運命の「二度目の洗礼の日」・・・

それは、うららかな春の日曜日でした。

いつものように教会学校に行き、帰り道、

小さな公園で少し遊んで行きました。

すると黄色い蝶がひらひらと飛んで来ました。

まだ少年(7歳)だった私は本能的に蝶を

追いかけ、かぶっていた帽子で

捕まえようと公園の中を走り回りました。

蝶は少年をあざ笑うかのようにひらひらと

視界から消えて行きました。

「ただいま~」と玄関を入ると

おばあちゃんが来ていました。

「おかえり~ン?なんか臭いね~」と

私のことをくんくんと嗅ぎました。

(おばあちゃんはイヌ年でした)

そして「あ!」と言っていきなり

私の帽子を取りました。

とっさに頭に手をやった私の指先に、

ねっとりとした感触。見ると指先には

茶色の絵の具のような・・

一瞬の内にそれが何かを悟りました。

全身に悪寒が走り、少年の悲鳴は

日曜日の住宅街の静かな空気を

切り裂きました。

私は公園にあった野良犬の落下物を

帽子ですくって、かぶって帰って来たのでした。

その後どうなったか…記憶はそこで

プッツリと途切れています。

あまりのおぞましさに

きっと記憶を消してしまったのでしょう

その日から、私は教会に行かなくなって

しまいました。

「この世で最も汚いモノが自分の頭に乗った」

「神に裏切られた」そんな感じでした。

そのショックは今考えても身震いするほどです。

神も天国も信じなくなった私は

その日から根っこを地獄に伸ばし続けました。

「暗黒の15年間」でした。

神との和解が成立するのは、

その後のことです。

「根っこが地獄にとどかなければ、

枝は天国にとどかない」(ニーチェ)

この言葉を実感できるようになったのは

あの「二度目の洗礼」があったから。

今は、そう思えるようになった自分が

います。

神の愛は本当に不快…じゃなかった

深いものだと思います…アーメン。


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