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真夜中乙女戦争ー東京版『夜は短し歩けよ乙女』

⑬『真夜中乙女戦争』 F 4/5

東京は、あと一分で終わる。愛していると言えないうちに―。

愛って、なんだ。永遠って、なんだ。眠れない夜は、どうすればいい。
この退屈は、虚しさは、どうすればいい。
どうせ他人になるのに、どうして私たちはどうでもいい話をしたがるのだろう。

どうせ死んでしまうのに、どうして今こうして生きているんだろう。
死ぬまでに本当にやりたかったことって、一体なんだったのだろう。

いま、青春小説史上、恋愛小説史上、犯罪小説史上、
最高に過激で孤独、そして正しく、美しい夜更かしが始まる。
『真夜中乙女戦争』F


Fさんの紡ぐ言葉との出会いは、Twitterだった。彼の紡ぐ、孤独で、でも誰かと通じ合えることを諦めていない言葉がストレートに刺さって、そこからInstagramに辿り着き、この本と出逢った。


『真夜中乙女戦争』はFさんのエッセンスをそっくりそのまま小説世界に投射したような物語。

Fさんのエッセンス。Twitterから始まりInstagram、エッセイ、小説と読んでいく中でFさんの紡ぐ言葉の核にあると自分なりに解釈した思考達。


携帯を握りしめていても思い出はできない。

痛々しく恥ずかしいことこそが美しい。

好きも嫌いも大声で叫べ。

その叫びが理解できる人だけが友達であり、その一人に出会えるまで無理に群れなくてもいい。孤独でいていい。

人は簡単には分かり合えない。

破壊衝動はあってもいい。

馬鹿なことこそ真面目に。

恥をかくことが学生の本分。

自分の感性を、思考を、拠り所を、守り抜く。

やりたいことは全部行動に移せ。


こういうようなこと。Twitterで、Instagramで、『20代で得た知見』で、何度も何度も繰り返し書かれてきたこと。こんなに繰り返されているのにそれでも飽きず、言われる度に新しい気持ちになるのは、Fさんが自分の持つ独自性を掘って掘って掘りまくって、その核心を突いた言葉が一般の捉え方とは少し違っていて、そのずれにいつも新鮮さを感じられるから。この人、全然出し惜しみしてない、と思った。



丸々2ページ以上にわたる、「僕」による佐藤への怒涛のダメ出しの一文がぐさっと刺さった。

今それしてへんってことはどっかでおまえはそれやりたくないと思ってんねん。

まさに、自分の編集に対するスタンスがこれで、やろうと思えば出版社でのアルバイトとか、ネットで繋がるとか、やりようはいくらでもあったんじゃないか。それをツテがないとか、時給が低いとか、忙しいとか理由をつけてやらなかったのは本当にやりたいことじゃなかったってことでは。逆に地方に関わることは誰に頼まれるでもなく自分で見つけて動いて、あ、やりたいことってこっちだったのかもって目から鱗が落ちた。


これは東京版、そしてFさん版の『夜は短し歩けよ乙女』だと思った。

大学に意味を見出せない主人公。ふざけた悪戯を大真面目になって一緒に実行してくれる悪友。自由奔放な憧れの女性。

でも、主人公の煮詰まり方が根本的に違う。これは物語の舞台からなのか、はたまた作者の性格の違いからか。

『夜は短し』の場合は、なんやかんや言って周りに人がいて、その人達をバカにしたりされたりしながらどんどん話が広がっていく開放感がある。

一方で、『真夜中乙女戦争』の場合は、もっと一人で考えて考えて、夜も眠れなくなる程考えて、周りに誰も理解者がいないと追い込まれて、でもその末にたった一人の理解者に出逢う。もしくは、そんな心の拠り所となるくらい圧倒的で強く輝くものと出逢う。

『夜は短し』は今の大学に入るきっかけを作ってくれた本だったけれど、『真夜中乙女戦争』は大学生という時間をどう生きるかを見せてくれた本。
行動することに対する後押しと、孤独への肯定をくれる。


何でも器用にこなせる人の苦しみって何なんやろう。「先輩」のような人の。
満たされないこと?持てるもの全部欲しくなっちゃうこと?

「先輩」の「本を作りたい理由」はうん、確かに、自分もそう思ってこの業界を目指してたんだって思った。

人生最悪なことばっかだったけど、この本が一冊ある、そんな世界に生きててよかったって思ってくれたら最高だよね、まだ生きてようかなって思ってくれたら最高だよね。


(2年前、就活をしていた頃ノートに残した感想。結局、出版ではなく地方に関わる会社で働いているよ。by社会人1年目の自分)

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