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「がんばらなくていいよ」なんて言ってごめん。

ふと、思春期のことを思い出していた。

持ち続けることは、めちゃくちゃ重いし生きづらいけど、絶対に捨てちゃいけない気がする

思春期こころの声

そう日々自分に言いきかせ、いわゆる信念めいたものにめちゃくちゃ執着していた当時の自分。

大人になって、子どもにその自分流をハンマーで粉砕されてはじめて、

執着を手放すことが必要だったのだと気付かされたんだけど、

その十年後、そういう気づきを執着心の固まりのような子どもに諭しても、全く無意味どころか自体をますます混乱させることに気づかされた。

そういえば、それなりの大人はたいてい、人生の一時期には執着心の権化のようになって、昼夜問わず働く仕事の鬼だったり、ドロドロの人間ドラマの沼にズブズブな時代を経ている。

そこでの行き詰まり、崩壊を経て、「なんであんなに執着してたんだろ?」ってなって、

「手放し、大事…!!!」

ってことろに行き着くわけで。

そこに至ってはじめて、今度はがんばりすぎないとか、自分の心の声を聴くとか、いうことがあらたな課題となって、とりくむことになるんだよね。

今それがテーマだから見えなくなりがちだけど、

落ち着いて俯瞰してみれば、「ゆずれない何かを守る(執着)」もまた過去のテーマだったんだと思う。

自分に何ができるのかがまだ定まっても身についてもいない状態で、今いる場所にたどり着くまでの若気の至りが渦巻くジャングルを生き抜くには、

自分の型となり、身を守る鎧としての執着は必要だったんだよね。

そう思うと、今そのジャングルにいる子どもたちに「がんばらなくていいよ」とか、「自分の心に従いなさい」言うことは、

そんな戦場でまさに前線に立とうとしている人に裸になれと言うようなもので…。

無視してこそ健全…!!!

自分が今感じているメッセージと、他の人が必要としているメッセージは違う。

なのに自分の課題目線での答えを、子どもにアドバイスすることは、知覚できる範囲の物理法則も知らない子に、いきなり見えないほど小さい世界で起きている量子力学を教えるようなものだ。

いくら子どもとの時間が多いとはいえ、自分を投影しちゃいけないなあと、

またひとつ現れた、自分へのテーマの難易度に、ぼーっとしてしまうのでした。

※冬休みに入り、いきなりの合宿同伴で、ここから先も年末年始は投稿が困難であることが明白になりました。「#5分日記」での投稿は、年始は休憩し、すべての年末年始予定が終わる1/10から再開します。良いお年を…!

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。