整理が娯楽にしかならない人
仕事が減ったので、この際放置していたnotionに本やらこれまで集めた資料やらを整理したいと思い、手をかけている。
一体、いつ終わるのか、終わったところでどれほど活用できるかもわかっていない。
でも、あれどこで読んだんだっけ?あの本発行年いつだっけ?この引用どの本のどこだっけ?
その検索で無駄に時間を費やしてしまい、サクっと言葉にできないために説明を諦めてしまうこともある。
せっかく読んだのに知識が生かされていない。何冊読んだとか、けっこうな数にはなるはずだけど、記録が続いた試しがない。
Amazonのリストで買う前、買った後、読了後でリスト分けすれば済むはずなんだろうけど、図書館や本屋でリストに入れることなく読む本もあるし、電子書籍もkindle、kobo、sonystore、DMMとバラバラ、読み放題は読み終わったらすぐ返しちゃうし、すべてダウンロードして見れる状態にしているわけでもないので、これまで何冊読んだのかは不明だ。
よく「年間○○冊読破」とか書いている人を見るたび、よく記録しているなあと感心してしまう。
子どもの習慣づけにシールやスタンプとかを親があげるよう、園や学校から求められることがあるけど、親子共に全く動機づけにならず、絵本カードや音読カードも読んでも記録が面倒で、「1時間くらいなんか色々読んだよね」と、読んだのに絵本カードが白紙なんてことはよくあった。
たしかにきれいにまとまっているのは気持ちいいし、記録するのは楽しい。
でも、それは「記録すること『だけ』に集中してやる」から楽しいのであって、「たのしい本探し」や「たのしい読書」が主活動になっているときは、邪魔で面倒なのである。というか、思い出すことすらできないのだ。
思い出せば、evernoteもそうやって一時情報を整理したが、振り返ったことなんてない。
googleフォトもアルバム分けしても、結局いつも日付けでスクロールして探す。
メモもタグ付けは続かず、テーマごとに保存場所を分けるのも続かないので、電話番号すら「080」検索でみつける。
そう思うと、この試みも「娯楽」に過ぎず、役になんか立たないのかもしれない。
それよりも、こうやってこれまでの記録を振り返り、ひさしぶりに目に入れること自体に意味があるのかもしれない。
まるで埋めたまま忘れていたどんぐりを見つけるみたいな。
というわけで日頃整理ができないほど整理は娯楽になり、だからこそ、より続かないのかもしれない。
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。