毎日投稿お休みして大切なことに気づいた、夏休み感覚、さいごの日。
久しぶりの日記を書く。
夏前には、「毎日続けられる程度に負荷を下げて、継続できるようにしたい」と色々考えを巡らせていた。
が、終わってみて今分かったことは、「減らす」方向に向けた時点で、いくところまでいく=「辞める」ことがなんとなく運命づけるということだ。
それを、失敗とは思わない。
子どもが休みの期間、レジャーを入れている日も帰宅後は仕事をしていたけど、自分に必要以上の負荷をかけなかったことで、「しっかり休めた」気がしている。
仕事だろうが、ライフワークだろうが、すると決めたことに「負荷」感が伴うことは変わらない。
思春期どっぷりの頃は、自己表現を辞めたら生きていけないと思ったし、それを辞めてまで生きていたくはないとすら思っていた。子どもを持っていてからも、その厨二病感覚はひきずっていたように思う。
それを辞めてしまったら、自分の輪郭がぼんやりして、溶けてしまうような、消えてしまうような怖さがあった。
だから、自己表現しなくても1ヶ月元気で楽しく生きられたなんてことは、起きてはいけなかったし、もしやっちゃったら表現できずに抑圧されていた、苦しんでいたと言うことがお約束。
でもねえ。
なんか、全然表現なんかしなくったって大丈夫だ。大丈夫だったと確認してしまった。
そしてほら、こうやってまた始められるんだからいいじゃん、って今は感じている。
やってもやらなくてもいいけどやる、でいいじゃん。
やってもやらなくても生きていけるけど、それが大切も、矛盾してない。
noteはこれからも相変わらず、連続更新したら褒めてくれるんだろうけど、何かを続けるのに、数字の動機づけなんて、いらないんだ。
何かを表現すること。
それが体の一部になっているからこそ、辞めても全然問題ない。
それはきっと自転車に乗れるということが、毎日自転車に乗ることではなく、10年間ブランクがあっても乗れるのと同じようなものだ。
今はそれが確認できたことをうれしく思う。
今週末で夏休みも終わり。
そして今夜は夏祭り。
どこかさびしいけど、充実感。
忍びよる夕立の気配。
どうか、花火ちゃんと打ち上げられますように。
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。