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テクノロジーのワイン化現象

今の40代って、教科書が黒塗りされるほどじゃないけど、テクノロジー面において、「これを身につけることが重要だ」とされていたものがどんどん更新されて、過去身につけた技術が使われないものになっていく、という経験を繰り返している世代だと思う。

たとえば、わたしは写真を撮ってご飯を食べているけれど、初めて写真を「技術として習得」することを教わったとき、その技術とは、「フィルムの現像技術」であり、「プリント技術」であり、

どうやってフィルムをパトローネから出すかとか、どうやってカメラに装填するのかとか、枚数を計算して撮るのかとか、ネガやポジの選び方だとか主に「フィルム管理」のことだった。

でも、今そんな技術が求められる仕事なんてどこにもない。なぜなら、フィルムで撮る仕事がほとんどなくなったからだ。

子どもの頃小遣いと時間を投じて作った、A面とB面の曲順と曲の長さを計算することで、同じ曲を無限ループで聴けるカセットは、もう聞く機械がない。

お気に入りの色で揃えたMDもまた、聴く機械も機会もない。

中学時代の半分以上の私的時間を使って書いた小説をが入っているフロッピーも、再生することは二度とないだろう。

高校時代のネガをがんばってスキャンして入れたMOも、二度と読み出すことはないどころか、どこにしまったのかも忘れた。

パソコン関連もそうで、フレームサイトの作り方を覚えて構築した数年後には、非推奨になって作り直し、Actionscriptを覚えた数年後には、Flashは使われなくなり、MovableTypeがWordpressに移行になり、Mixiがfacebookになり、itunesに曲はたっぷりあるけど、ほとんどYoutubeで音楽を聴いている。

使い方や、そこに入れた中身は、まるで死んだら持っていけない能力や体みたいだ。

がんばって覚えている瞬間に、今の未来それが全く使えない指導でも良くなっていることを伝えたら、過去のわたしはそれを「死」のように恐れて、自分のしていることを無駄だと思うかもしれない。

でも、今いる「死んだ側」から見ると、たしかに技術も中身も今は使ってないけど、それを思い出すのは楽しいし、別に今更惜しくもない。

最近、情報管理の方法をNotion,とFigmaに移行してて、その作業がまた楽しいんだけど、この二つに移行しなかった情報はきっと多分「死んで」しまうんだろう。そして、この二つに移行した情報もいつか別のフォーマットに置き換えられて、今わたしが楽しんでいる作業も無駄になるんだと思う。

でも、これだけ何度も「死んで」ると、もはやそういうテクノロジーによる死が度々起きても、そういう未来を知っても「へえ」としか思わない。

それよりも、「イルフォードやポートラを買う優越感」とか「折った爪にテープ貼ってカセット再利用」とか、「そんなことやってた〜〜笑」と時々思い出してひとりニヤニヤできるネタに、今の最先端テクノロジーすらなるんだろうと想像することの方が、いつかの楽しみの予感にワクワクする。

というわけで、いつかの「懐かしい」って感情のワインのために、今日も最新のテクノロジーに飛びつくのである。



自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。