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死神に見捨てられた女

最近、子どもたちと朝散歩をするようにしている。

朝日を浴びると気持ちが切り替わっていい気持ちになる、どんな1日にするにしろ気持ちよい状態に切り替えることが何よりまず大切だと思うからだ。

散歩の帰り道には、子どもとの会話から今日はこれを書こう、あれも書きたいというとっかかりをたくさん手に入れる。

でも、その後の家事やあれこれでタイミングを逃したり、残念な知らせを受けたりして流れから外れてしまうと、そのとっかかりは消えてしまう。

何を書こうとしたかは覚えているのだけれど、もうそれを書きたいという気持ちはない。

というのが、今の状態である。

さあ、どうしよう。

今日は、子どもの頃寝る前に毎日心の中でお祈りをする儀式をしていたという秘密を子どもに教えた。

そこからちょっと神秘的な体験に心が泳いで、10代後半から20代前半にかけて「大事故とのニアミス」が4度あった話も候補に加わり、

さらに霊の存在がないと説明がつかない体験の話も考えた。

いつも書く前に決めるのは、だいたい入り口だけ。

書きたいという気持ちの勢いで流れる向きで、行き先が決まるから今となってどんな話になったのかはわからない。

ただ、多分どれもそれが自分の今の生きやすさにつながっているから、ポジティブな話にはなったと思う。

特にニアミス話は、自分をちゃんと社会に役立てたいというエゴの強欲に対して、「いや、あんた単なる死に損ないでしょ」という気楽さなツッコミを入れてくれるからだ。



一人暮らしの頃に見た、忘れられない映画がある。

これは、飛行機事故で死ぬはずだった高校生が死の運命に追いかけられ続けるという恐怖映画だ。

深夜の映画枠で偶然目にしたのだけど、その4回のニアミスを思い出して震撼し、ついつい最後まで見てしまった。

一度死ぬ予定だった運命に、運良く逃れられても追われ続ける主人公たち。

幸い、わたしは死神には諦めてもらえたようである。



結局、ニアミス話を拾って書いた今日の日記。
はじめてしまえばなんとかなるもの。

ちょっとホッとした。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。