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冷めた中年のおたのしみ

ちいさなころは、いつも人と自分を比べてばかりいた。

でも、歳を重ねた今は、目の前で起きたことに対して、ときどき羨ましいなあと思う瞬間はあっても、誰かを見ているときに、「比べて自分はどうか」なんて隣に並べて測ろうという意思はほとんどなくなった。

という感覚は、中年にもなれば頷いてもらえるのではと思うけど、どうしてなんだろう。

子どもの頃は、同じクラス、同じ歳、同じ性別、同じ遊び、同じ勉強と、大人に守られた比較的単純でひらたい世界を生きていたように思う。

同じクラスの女の子で漫画を描くのが好きなあの子と自分、どっちの絵がうまいかとか、関わりのある世界は、みんな小さな同じ土俵のなかだった。

今思えば、家庭環境や収入、持って生まれたDNAなど、見えない部分で実は月とすっぽん、比べちゃいけない相手だったことも多いよなあと気づくけど、同じ土俵を生きていると思い込むには十分の土台があった。

歳を重ねると、目に見えるものに絞っても、ここまで同質性が重なることは少ない。

近所であっても、年齢がまるで違う。

同じ歳でも、世帯のなかで果たしている役割が全然違う。

同じ性別でも、職業人としての生き方は別次元。

同じ系列のDNAでも、遊び方、学ぶ領域も異世界。

つながっているということは、どこかはかすってるんだけど、それは特定の領域であって、部分的。

土俵はおろか、比べるために揃えられるような土台がないのだ。

比べるためには、比べる対象を単純化しなければいけない。

「しあわせか?」なら、多様なしあわせ感のなかから、お互いが持っている計測可能なパラメータを選んで、「今現在」の瞬間に限って比較することしかできない。

「豊かか?」「すごいか?」「えらいか?」「元気か?」「バカか?」などなども全部そう。

人生に浮き沈みがあること。指標自体が変わってしまうことがあること。価値観自体がひっくり返ることがあること。

そんな経験をしてきた中年には、そんな計測で勝っても負けてもそれはスカっとするとか、やったーと思うとか、自己憐憫に浸るとか、自分の感情を弄ぶ道楽以上の意味がないことは、若気の至りでさんざんやっているので、分かっている。

恥をかいて反省したとも言えるし、その遊びに飽きた、とも言える。

とにかく、世界の複雑さが見えてしまうと、「比べる」という行為自体が世界の単純化の産物であると分かって、「冷めて」しまうのだろう。

子どもたちは、今日もおかしが一個多いとか少ないとか、どっちが先にとたっとか取らないとか、比べに比べまくっている。

そんな、今は遊べなくなってしまった感情のお手玉を鑑賞するのが、中年の楽しみなのかもしれない。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。