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風船のような感情

アルボムッレ・スマナサーラさんの「怒らないこと」という本を読んだ時、このようなニュアンスのことが書いてあった。

・よく怒る人が怒らないようになるためには、怒らないようにしようと思うしかない

この点について、少し疑問があった。

怒る人がまさに怒ろう、怒ってしまうとなってしまう時、怒らないように制御するには、かなりの忍耐とパワーが必要なのではないかと思ったのだった。実際に、そんな簡単なことが出来ていれば、怒る人が自分が怒ってしまうことについて、悩みの種になったりすることなんてないんじゃないかとさえ思ってしまっていた。


しかし、ひどい疲労状態だったときに、ふと普段ならどうという事もないことで風船の様に真っ赤になり怒りが込み上げてきた。別に怒る対象がいるわけでもなかった。1人で思っただけだった。つまり、スマナサーラさんが言いたかったことは、怒りやすい人は潜在的に怒りたい願望を蓄積させてあるのではないのだろうか。

自分は怒りたいと思っていないし、怒る人も嫌い、なのに、普段なら怒りようがないことに対してまで、どうしてもカッとなってしまって、相手にきついことを言ったり、怒ったり、怒鳴ったりして相手を傷つけてしまい後悔したけどもうおそいみたいな。

もうこの地点では、手遅れ状態なのだろう。怒りたい衝動にかられているのだから。怒らないようにするとストレスがたまってしまうからだ。つまり、怒り心頭の時の自分はコントロールがきかなくなっているからだ。

だが、その根底には、怒り心頭の前にすでに、怒りたいという願望の蓄積があったのだと思う。スマナサーラさんは、その時の願望を普段から蓄積させない様にとおっしゃっているのだ、それが普段から怒らないようにしなさい日々怒らない自分でいようと祈りなさいなんだと。そうすれば、普段なら怒ってしまうことでも、日々の訓練で怒らないようにできるのではないだろうか。怒りの蓄積のかたまりをストップさせるより、小さな怒りの感情のかけらを取り除く方が楽にできる。

また、同時に怒りたいと思う時、人は心にまだまだ余裕があるのではないかとも思った。喜怒哀楽という言葉がある。これはまさに的を得ており、嬉しい、喜びという感情がある時、人は風船がふくらむような喜びの飽和に向かっている。それが、飽和を通り越してしまった時、エネルギーが加わることで能面の様に怒り転換になっているのではないだろうか。つまり、怒りは喜び楽しみと実は表裏一体で、触媒が変わるだけで怒りに七変化するものなのだと実感。

人が花火を見て感動するのは、自分の中にある悲しみや怒りが飽和して溢れ出し、からっぽになったところに、花火という美しい輝きをみた感動という喜びや楽しさで満たされるからではないだろうか。スポーツやダンス、楽器の演奏、芸術など一心不乱になることで、怒りや悲しみを飽和させ、楽しみに移行するから、心が晴々するのではないだろうか。時宗の踊念仏にも通ずるものがある。

原子力エネルギーは再生可能エネルギーよりも、簡単にエネルギーを過剰にできる。しかし、東北大震災の時のように、自然のエネルギーが過剰になり温暖化で熱をうまく逃す事が出来なくなった時、それは自然の怒りとなって人々に襲いかかる。排気ガス問題もそうだ。フランスなどは電気自動車に切り替えている。そのエネルギーもやはり原子力なのか。

これからの時代、再生可能エネルギーで生活できるよう、ライフスタイル自体も変化していくのではないだろうか。車も100キロも出なくても、自転車やバイクよりも便利な速さで移動できればそれでいいのではないだろうか。今ある資源で、排気ガスをなくし自然を守り、車が走ることができれば地球の怒りもおさまるのではないだろうか。

普段の意識って大切なんだとつくづく思った。

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