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記憶を売る店 - 中編小説

第1章

雨が降り続く東京の街。霧雨に包まれた街並みの中、一つの看板が人々の目を引いていた。

「記憶商店 - あなたの過去を買い取ります」

佐藤美咲(28歳)は、その看板の前で立ち止まった。傘の滴が地面に落ちる音だけが、彼女の耳に届いていた。

美咲の心の中で、葛藤が渦巻いていた。彼女の中にある、消したい記憶。それは3年前の、あの日の出来事だった。

恋人との別れ。そして、その直後に起きた交通事故。美咲の両親を奪った、あの悲劇的な日。

「もし...あの日の記憶を消せたら」

そう思いながら、美咲は重い足取りで店の扉を開けた。

店内は、予想に反して明るく清潔だった。白を基調とした内装で、どこか病院を思わせる雰囲気。しかし、それ以上に目を引いたのは、壁一面に並ぶ小さな瓶だった。

それぞれの瓶には、淡く光る液体が入っている。そして、ラベルには日付と簡単な説明が書かれていた。

「2019年8月15日 - 初恋の思い出」 「2022年3月20日 - 卒業式での感動」 「2023年12月24日 - 家族との最後のクリスマス」

美咲は息を呑んだ。これらは全て、誰かの大切な記憶なのだ。

「いらっしゃいませ」

突然の声に、美咲は驚いて振り返った。

そこには、白衣を着た中年の男性が立っていた。温和な笑顔を浮かべているその男性は、名札に「田中」と書かれていた。

「初めてですね。記憶の売却をお考えですか?」

田中の声は、不思議と落ち着いた響きを持っていた。

美咲は少し躊躇したが、ゆっくりと頷いた。

「はい...私には、消したい記憶があるんです」

第2章

田中は美咲をカウンターに案内した。そこには、複雑な機械が置かれていた。

「では、まずはあなたの記憶を確認させていただきます」

田中は美咲の頭にセンサーを取り付け、機械を操作し始めた。

すると、目の前のスクリーンに映像が映し出された。それは、まさに美咲が消したいと思っていた日の記憶だった。

恋人との別れのシーン。涙を流す自分。そして、その直後に警察から電話を受け取る場面。両親の事故を知らされ、崩れ落ちる自分の姿。

美咲は目を閉じた。あまりにも生々しい記憶に、胸が痛んだ。

「この記憶を消したいのですね」田中が静かに言った。

美咲は黙って頷いた。

「しかし、お客様。本当にそれでよろしいのでしょうか」

美咲は驚いて目を開けた。田中の表情は、真剣そのものだった。

「どういう意味でしょうか?」

田中はゆっくりと説明を始めた。

「記憶は、私たちの一部です。それは時に痛みを伴いますが、同時に私たちを形作るものでもあります」

彼は壁の瓶を指差した。

「あの瓶の中には、様々な人生が詰まっています。喜びも、悲しみも、全てが大切な経験なのです」

美咲は黙って聞いていた。

「お客様の記憶も、確かに辛いものです。しかし、その記憶があるからこそ、あなたは今のあなたなのです」

田中の言葉は、美咲の心に深く刺さった。

第3章

美咲は、自分の人生を振り返った。

確かに、あの日以来、彼女は笑顔を失っていた。しかし同時に、両親との思い出を大切にし、強く生きようとしてきた。

恋人との別れは辛かったが、それを乗り越えて新しい仕事にも挑戦した。

「私は...逃げようとしていたんですね」

美咲の目に、涙が浮かんだ。

田中はやさしく微笑んだ。

「記憶を売ることは、簡単な解決策に見えます。しかし、本当の解決は、その記憶と向き合い、受け入れることにあるのです」

美咲は深く息を吐いた。そして、決意の表情で言った。

「記憶は...売りません」

田中は満足そうに頷いた。

「良い選択です, お客様」

美咲は立ち上がり、外に出た。雨は上がり、薄日が差し始めていた。

彼女は空を見上げ、両親の顔を思い浮かべた。そして、小さく微笑んだ。

「ありがとう。私、頑張ります」

美咲は歩き出した。辛い記憶を抱えながらも、前を向いて。

それは、新しい人生の始まりだった。

エピローグ

それから5年後。

美咲は再び「記憶商店」の前に立っていた。しかし今回は、客としてではない。

「田中さん、お久しぶりです」

店内に入ると、いつもの白衣姿の田中が迎えてくれた。

「美咲さん。お元気でしたか」

美咲は明るく笑顔で答えた。

「はい。おかげさまで」

彼女は、自分の著書を田中に手渡した。

『記憶の重さ - 喪失と再生の物語』

「私の経験を、同じような境遇の人たちに伝えたくて。この本を書きました」

田中は感慨深げに本を手に取った。

「素晴らしい。きっと多くの人の心に響くでしょう」

美咲は店内を見回した。相変わらず、壁には記憶の入った瓶が並んでいる。

「田中さん。あの日、私に記憶を売らせなかったこと。本当にありがとうございました」

田中は優しく微笑んだ。

「いいえ。決断したのは美咲さん自身です」

美咲は深く頷いた。そして、ふと思いついて言った。

「ねえ、田中さん。私にも、できることはありませんか?」

田中は少し驚いた様子で美咲を見た。

「記憶を売りに来る人たちの話を聞いたり、アドバイスをしたり。私の経験が、誰かの助けになるかもしれません」

田中の目が輝いた。

「それは...素晴らしいアイデアです」

こうして美咲は、「記憶商店」の新しいカウンセラーとして働き始めた。

彼女の存在は、多くの人々に希望を与えた。記憶を売ろうとする人々に、記憶の大切さを伝え、苦しみを乗り越える勇気を与えたのだ。

美咲にとって、かつての辛い記憶は今や、誰かを助ける力となっていた。

彼女は毎日、感謝の気持ちを込めて空を見上げる。

「お父さん、お母さん。私、幸せです」

記憶は、時に痛みをもたらす。 しかし同時に、私たちを強くし、成長させる。 そして何より、私たちを「私たち」たらしめるもの。

それが、「記憶商店」が最後に教えてくれた真実だった。

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