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『悪は存在しない』と『シャイニング』

2024.5.24
 戦争や政治家たちの悪行やらが横行しているこの時期に『悪は存在しない』と題名を付けた濱口監督に、そりゃ観るしかない、と早速映画館を調べた。やっていたのは隣県のミニシアター。その日に限って夜7時の回しかなかったのだが、どうしてもすぐ観たくて遅くなるのを覚悟で隣県へ赴いた。毎回恨み言のように書き続けることで気を晴らす「この町には映画館がない」であるが、今回はもう一言、隣県のミニシアター万歳。
 さて、簡単に映画を紹介すると、自然豊かな高原で生活する父と娘がいる。彼らの暮らすその土地に都会の会社がグランビング施設を作ろうとしており住民たちと話し合いが始まるのだが、、と言うあらすじだ。しかしあらすじは単なる導入でしかない。ストーリーを追うだけではこの映画のことは全くわからない。しかもこの映画はとんでもない終わり方をするのだ。
 
 まず、始まりのシーンは、歩きながら見上げた木々の映像、つまりは流れてゆく枝と葉と空の映像なのだが、これがしつこいくらい長く流れる。始めは綺麗だなぁと観ているのだが、そのうちに少し長いな、と思い始める。そしてそれでもまだ続くそのシーンを見ていると、画面の下から木々が泡のように出てくる映像に見えてきた。同じ映像が流れているだけなのに勝手に違う意味合いを感じてしまったのである。もしかして、これがこの映画の言いたいことなのかな、とぼんやり思いつつ、そして同時に考えていたのはなぜかキューブリック監督の映画『シャイニング』のことであった。ハリウッドのサスペンス映画のオープニングって『シャイニング』みたいに、山道を走る車を上からずーっと撮るシーン多いよなぁ、である。何故そんなことを考えたのか訳がわからないが、映画のオープニングでの直感というのは面白い。なぜならその後も『シャイニング』のことばかり思い出すのである。
 
 この映画には気になる映像がたくさんある。例えば、車の後部座席から前の席で話している2人を撮っているシーンがあるが、2人の顔はいつまで経っても前から撮られない。後ろ姿のみで、どんな表情をして話しているのかわからない。2人の顔を想像し耳を傾けているうちに、ふと、この2人を見ているのは誰だろうと変な気持ちになる。映画のストーリーを追いつつも別のことを考えてしまう。子供が羽を探しにゆく草原は長老の「あまり1人で行くなよ」の言葉だけで何か特別な怖い場所のように思えてくるし、車のバックミラーに写っているような映像を見てはそこにいない誰かが後部座席で後ろ向きに座って景色を見ているようだと感じる。なぜ前ではなくて後ろを撮るのだろうと気になる。山道で学校帰りの子供を見つけるシーンでは大きな木を挟んで突然空間や時間が短縮したかのような演出があり、ハッとする。深く切ったらしい手のひらは映されず、血が垂れる棘が映る。不穏な時間に、どこかが燃えているかのように流れる煙。こちらをじっと見る怪我をしている動物。そしてこれらの気になる映像が悉く『シャイニング』の雰囲気を思い出す。この山の中には人間が計り知れない何かがいる、と思わせられる。

 ところで、主人公の男性は、正直言って素人なのか?という演技だった。なのか?というより完全に演技初心者だろう。気になって誰なのか調べたら、映画監督をしている方であった。私が知らないだけの勉強不足だ。まぁ、それは置いておいて、始めは下手な演技で不安になるのだが、観続けると不思議なことに奇妙で不気味な味になってゆく。あまり表情のないところまでが妙に魅力的でだんだん人物に説得力が出てくるのだ。ベテランで表情豊かな俳優を隣に置くので、お互いが際立つ。他の役者たちも同様、いろんな役者たちが入り混じり、なんとも言えない奇妙な雰囲気を醸し出している。これもまた、この映画の特徴になっている。

 さて、そうこうするうちに冒頭でも書いたようなとんでもない終わりが来る。そのシーンはまるで今までのストーリーから逸脱したかのような突拍子もない出来事だ。鑑賞者全員度肝を抜かれるシーンであるのは間違いない。煙に巻かれたように映画館を後にしつつ、どう言うことだ?と車に乗りながら考えていた。まぁつまり監督の思う壺にハマったのである。しかしそのハテナの突破口がやはりファーストインプレッションの『シャイニング』であった。私が思い出したのは、何かに取り憑かれた小説家が狂ってゆくあのシーンである。
 冒頭、流れる枝と葉と空を見続けているだけで私に起こった変化のように、長く自然の中で暮らしてきた彼には、何か普通とは違う感覚があったのではないだろうか。無表情で感情を見せない様や異常に物忘れをすることもまるで何かに取り憑かれている伏線のようにも感じてくる。仲良く暮らしていたらしい妻がそこにいないこと、そのような日常からは切り離されていること。そして自然のことは熟知していること。ほとんど自然だけに対峙していれば、あるいは何か神秘的な思考なども生まれてくるかもしれない。とにかく何かによってスイッチが入ったように、そしてそれが当然であるかのように彼はためらいなく行動した。こちらから見ればはっきり悪と取れる行動だ。しかし悪は存在しないとわざわざ題名で言っている。
 日常生活で何度も繰り返すこと。繰り返し見、感じること。それはいつのまにか当たり前になり、初めて受けた感情や感覚が変化し、または忘れ、もしかしたら他人から見たらおかしく、理解できない、例えば何かに取り憑かれたような、しかし本人にはただの習慣になってしまうことがあるのではないか。劇中芸能事務所で働いている2人の会話に、芸能界がいかに狂っているかを語り合うシーンがあるが、2人ともそれとわかっていながら仕事を続けている。清流を守りたい人、芸能事務所を守りたい人、お金を稼ぎたい人らそれぞれの「当たり前」と「ズレ」。自分にもあるのではないか。例えばただ流れてゆくSNSをみる時間、政治などに対する態度、なんなら気のおけない人間関係、それらの中にも、気が付かないうちに麻痺してしまっているものがあるのではないだろうか。自分にとって当たり前の日々の中に、悪は存在しない。しかし、習慣の中には色々なものが隠れている。そのこと自体がなんらかのきっかけで、突如悪を生み出してしまうこともあるのでは?そんなことを言われたような恐ろしい映画であった。しばらくは自分を俯瞰して観察する羽目になりそうである。



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