actress

僕は舞台の上の貴女に恋をした

秋の夕暮れ時の空は
先程まで降っていた雨の気配を匂わせながら
地球の表面を歩く人々を包んでいる
僕は劇場に入りチケットを切って
その半券を財布の中にしまった
ゆっくりとホールに入る
半分より少し前の下手の座席
ここがいつものスポット
柔らかなクッションが僕の体を受け止めた
この独特の香りは何処から来るのだろうか
そんなことを思いながら
プログラムのキャストのページの
貴女の芸名を指で辿った

初めてここへ来た日はまだ雪のあった頃
本名も知らない貴女を咀嚼するように
僕は何度もここへ通った
完全なる一方通行の感情を
上手く片付けられない僕は
ただここに来るだけで

ブザーが鳴って、緞帳が上がる
下手側の端に居る君は照明を受けて
誰より眩しい、様な気がする
緞帳が上がっている間だけ
僕と貴女を隔てる幕がない時だけ
その時間を共有できる
一分一秒を刻んで
噛み締める様に時計は回る
この時のために僕は
生きていられるのかも知れないし
そうでないのかも知れない
幕の向こうの異世界の人間に恋をした
愚かな男の無様な姿が
ただそこにあるだけで
そしてまた、幕が世界を遮断する

異世界への幻想から戻ってきた様に
観劇後の余韻と脱力感を感じ
僕は出口へと進む
横を見て心拍が跳ね上がる
今日は役者挨拶があって
その中には君も居て、
臆病な僕は急いで外に出た
大通りを冷たい風が吹き抜ける
火照った血液が冷やされるのを感じる
「落としましたよ」
後ろから聞こえた声に硬直し
視界が夜の闇に溶ける
次に目に入ったのは見慣れたボールペン
その先には貴女が居た
「ご観劇ありがとうございました」

僕は今日、目の前の貴女に恋をした

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