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茜色のうさぎ

「ねぇ、何で夕焼けは赤いの?」

角の信号が青に変わりかける時、私はこうやってたいして気にしてもない質問をして彼を引き留めた。彼の自転車の荷台に指を引っ掛けて、幾度となく青信号を見送った。信号だけじゃない、彼と別れる時はいつもこうやってでまかせの質問をした。科学のこと、数学のこと、哲学や宗教のこと。彼はどんな事でも教えてくれた。私が頷くまで何度も何度も。

「なんでだと思う?」

彼はいつも初めに問いかける。彼のワンタッチネクタイの結び目あたりを見ながら考えて、それから見上げる眼鏡の向こうの優しい目が大好きだった。目線が合うと少しだけ微笑んで、楽しそうに説明を始める。ふたりの影がアスファルトに溶けていく時はまるで時間に取り残された幻想の様だった。





目を開けるとソファーの上だった。外はすっかり暗く、日曜日としての価値はもう失なわれている。床に落ちたクッションとずり落ちた毛布を拾い上げもう一度横になった。瞼の裏にはさっきまでの夕焼けの茜色がこびり付き、アパート備え付けの粗末なクローゼットに掛かったまだ新しいスーツの黒色の上に残像として残っていた。札幌の隅の日当たりの悪い一室のクローゼットはいつもこんな風にじっとりとしている。

今日はこのまま寝てしまおうか。

せめて服だけでも寝間着に着替えようとしたその時、電話が鳴った。

東京にいる高校時代の友人からで、突然の電話に胸騒ぎを感じながらもゆっくり画面をスライドした。

「もしもし、俺だけど、お前今から東京来れるか?」

友人は切羽詰まったように早口で話し、おっとりとした高校時代の印象とは重ならない。瞼の裏の色は視界と同化し、さっきまでの茜色は見えなくなった。

「どうしたの?」

私が声を張ると反対に友人の声は曇った。

「あいつが亡くなった。明日葬儀がある」

一息ほどの沈黙があった後、わかったとだけいい、式場の場所だけをメモして電話を切った。

私は急いで最終便の航空チケットを取り、空港までの電車の時間を調べた。1年以上前に何度か病院に見舞いに行ったことがあり彼が闘病生活をしていたのは知っていたとはいえ、何故か恐ろしく冷静だった。まるでこうなることを知っていたかのように淡々と支度を進めた。

喪服を引き出しの奥から引っ張り出すと、その下に袋に入った何かが下敷きになっているのを見つけた。どきりと心拍が跳ね上がり手に取って見たそれは見覚えのある暗い赤色のチェックの模様をしていたが、高校時代に私が身に付けていたものではない。彼のネクタイだった。ジップロックの口に手をかけたが開くことはせず喪服と一緒にキャリーケースに入れた。

替えの服を1着と下着とメイク道具一式を詰め込んで、ケースを閉じ鍵を掛け部屋全体を見回した。服や鞄で散らかり放題の部屋ではあるが、予定の電車に乗るにはそのままにするのは仕方なく片付けは諦めいつもより薄いコートを羽織った。

靴を履いてからもう一度振り返って見た自分の部屋には二度と戻って来られないような気がした。

私は冷たい雨の降る中新千歳空港発の最終便に飛び乗った。





「ネクタイが欲しい」

卒業式の後の最後のわがままだった。彼は少し困った顔をしてから私の首元に手を伸ばし、そこにあったワンタッチのリボンを外した。そして空いた首元に自分のネクタイをぱちんと付け、襟を整えた。それから彼は何も言わずそっと私の身体に腕を回し、私の足元がふらつくくらいぐっと胸に引き寄せた。彼の首から下にすっぽりと収まった私は入学してから初めて学校にしてきたファンデーションやマスカラが彼のブレザーを汚すことも気にせずに声を上げて泣いた。私もぎゅっと彼を抱き締めると、彼は先程より腕に力を込めた。気道が圧迫される様な男性の力に苦しさを感じながら私の頭は彼の涙に濡れていった。





空港から外に出るとここ数日恋しかった初秋の余韻が残る風が頬を撫でた。うちに泊まらないかと誘った友人からの誘いは断ってビジネスホテルを予約していた。深夜にも関わらず列を作るタクシーのうちの1台に乗り込みホテルへ向かった。

東京の夜景は残業で出来ていると言うが、タワマンから漏れる明かりや街のネオンはそこに命があることを証明しているようだった。

証明。彼はよくそのせいで黒板と右手の袖を真っ白にしていたが、その内容はもうすっかり忘れてしまった。やはり脳は生きて行くために必要な記憶以外はふるい落としていくのだろう。彼の右手の先にあるチョークから白い粉が零れていくのが目に浮かんだ。チョーク受けに零れた粉は専用の小さなほうきで掃いて捨てられる。ほうきを持つ小さな手。あれは私の手だ。次から次へと落ちてくるその粉は目を開けた途端ホテルから放たれる光の中に消えてしまった。





部屋に入るなり私は靴を履いたままベッドに寝転んだ。ベッドの足元の茶色く細長いあの布はこんな時のためにあるらしい。時計は既に2時半を過ぎていた。シャワーを浴びなければと思ったが、どうしても身体が動かない。灯りを消えるギリギリまで暗く設定して天井を薄目でぼぅっと眺めていた。

頭に腫瘍ができるってどんな風だろう。彼は頭が良いから、頭を酷使し過ぎたのかもしれない。頭が侵されれば昔の記憶も消えてなくなっていきそうだ。

私はいつまで彼の記憶の中に居続けられたのだろうか。

地元の高校を出て彼は上京し、私は札幌に残り進学した。物理的な距離は放っておくと心理的距離になることを身をもって体感した。初めは深夜まで通話をしたりすることもあったが、お互い新しい場所での生活に埋もれ次第に連絡を取ることもなくなっていった。

一度だけ夏休みに2人で小樽へ行ったことがある。観光地を散策し、とんぼ玉を作って海鮮丼を食べた。

気付いた時には歩き疲れて彼の背中に背負われていて、行き着いた先で茜色に染まった海を見た。いつか見た映画と同じ様に、海の上を何羽ものうさぎが跳ねているかのようなきらきら光る白い波がやがて濃紺に染まり夜空へ溶けていった。それ以来大学の空きコマに豊平川を眺めに行くようになったが、二度とうさぎを見ることはなかった。





人は失恋するとショパンを聴くと誰かが言っていたが、それは都心環状線の柵にしがみついた一部の洒落た人々のことで地方都市の田舎者にはJpopが似合う。平日と同じ時間に鳴ったアラームは日本の隅に追いやられたプロレタリアートの生活音の様だ。アラームを止めて冷たいシャワーを浴びる。昨晩の雨を思わせるそれは、身体の中に染み込んで皮膚をヒリつかせた。鏡には既に市場価値が右肩下がりになりつつある自分の身体が映る。もう二度と触れられることのないであろう白い肌は、前よりくすんだ色に見えた。



「君何年?」

「3」

「同じ。学部は?」

「文学」

「どっちの」

「日文。そっちは」

「生命工学」

「バカじゃん」

「それな」



「今度うち来ん?」

「なんで」

「料理でも作ってよ」

「下手だよ」

「俺よりマシだべ」

「別にいいけど」



「ねぇやっぱやめよ」

「もう無理でしょ」

「嫌だって」

「いいから」

「痛い」

「痛い」

「嫌だってば」

「うるさい」



「もう帰るの」

「うん」

「もう来なくていいよ」

「ごめん」

「早く帰って」

「じゃあね」



私はこれからもショパンを聴かずに生きていく覚悟はできていた。少なくとも物知りで眼鏡が似合って料理の上手い、そんな人にはなれないし、かと言って出会うこともないだろう。心の空洞を修復するよりも見ないようにする方が余程楽で賢い生き方なのかもしれない。

シャワーを止めてバスタオルを羽織る。ショパンにしがみつく人々が居るならエチュードの消化試合の様な毎日にしがみつく人がいてもバチは当たらない。今日の別れもエチュードのひとつに組み込んでしまえば苦しむことも引きずることもないだろう。

もう一度友人達と合流する時間を確認し支度を急いだ。





東京という箱の中は一極集中で溶解度を遥かに超えた砂糖を溶かした水溶液のようで、どうやっても全ては溶けきらない。そのうち混ぜることも忘れられ、底に固まった固体は人の口に入ることの無いままガチガチに固まり、怪訝な表情をされながら削って取り除かれその生涯を終える。上手く水に溶けられたシロップは誰かの口に入り幸福を生み出す。

彼はきっと人に届く甘い存在になれるはずだった。

式場には彼の親族らしき人は元より、友人であろう若い人が沢山訪れていた。高校時代にどこかで見た事のある顔と何度もすれ違いながら友人に連れられて彼の母に挨拶に行った。彼によく似て美しいその顔は、赤く腫れた目をしながらもぱっちりと開いていた。写真の中の彼に本当によく似ている。しかし彼やその兄弟達を育ててきたその手からは彼女のこれまでの人生が見て取れた。一方私の手は細く爪も光沢を持っている。ただ毎日パソコンのキーボードを打つだけの私は誰かのために何が出来るというのだろうか。





「みゆの爪、綺麗」

「就活終わったからネイルしたんだ。ありがとう」

彼が入院してから数回病院の彼を訪ねた。猫の手で見せた私の爪を彼は愛おしそうに撫でてくれた。

「アラザンみたいなのついてる」

「アラザンなんてよく知ってるね」

「お菓子とか作るの好きだったから」

彼は相変わらず私の爪に目を落とし、ネイルストーンに触れていた。彼の指から微かな熱が伝わり、爪の上でゆっくりとアラザンが溶けていくような気がした。

「早く元気になってね。前は小樽に行ったからもっと羽を伸ばして釧路なんかに行こう。今度は夕焼けじゃなくて朝日を見よう。太平洋に登る朝日絶対綺麗だよ」

「そうだね、行こう。釧路」

その後すぐに面会が出来なくなって、それから今日まで会うことはなかった。

北国の桜の蕾が膨らんできた頃、私は社会人になりネイルを外した。





葬式が終わって彼に別れを告げた。彼の母親には手を握ってもいいよと言われたが、眠ったような彼の顔を目に焼き付けて式場を後にした。

私は少し離れた橋の上まで行って、彼のいる方向をぼんやり眺めていた。隣接する火葬場から伸びた煙突が雨上がりの曇った空に同化しており、そこから細く煙が上がりやがて見えなくなった。

私との記憶は一緒に昇っているのだろうか。空になっていく彼を目で追っている自分は幼かったあの頃と何一つ変わっていない。

放課後の教室の黒板で漸化式を解く彼の背中が目に浮かんだ。大きな背中だった。あの頃からずっとこの背中に向かって走っていた。そして誰よりも大好きだった。際限もなく零れていくチョークの粉は窓からの夕日を受けてきらきら光って見える。

「もう追いつけないや」

目に入る景色が涙で乱反射してチョークの粉のように零れ、子供のような泣き声が橋の上に響いた。

心の空洞は無視できるようなものではなかった。彼との時間が今の自分を創り出した。彼の一部は私の一部にもなっていた。彼はどんな事でも教えてくれた。大人になる意味も、誰かを愛し守っていくことも。本当はかつて彼がしてくれたように、彼の痛みを知って分け合ってあげたかった。守られるだけでなく、大切な人を守り抜ける存在に。

私は彼になりたかった。

離れてしまった時間を悔やみ今まで抑えていた、あるいは見ないふりをしていた感情が一気に溢れ人目も気にせず声が出なくなるまで大粒の涙を流した。

どのくらい経った後か目をこすり見ると、そこにはうさぎがいた。さっきまでの曇り空は晴れ、橋から見える川の水面は茜色に染まっている。いつか彼の背中で見た時と同じ様に、川の上を何羽ものうさぎが跳ねているかのような夕日を反射した水面が白く光っていた。

鞄の中から彼のネクタイが入ったジップロックを取り出しその口を開ける。ほんのり彼の匂いがした。

私は顔を上げ空の眩しさに目を細めると、持っていた彼のネクタイをもう一度ぎゅっと握り、うさぎの上にそれを落とした。ネクタイはうさぎと一緒に消えていった。

それから辺りが濃紺色に染まるまでその場でじっとしていた。紡ぎきれなかった糸はまだ錆び付いてはいない。彼が私の一部になっているならきっと一生かけて紡ぎ続けられる。秋の澄んだ空にペガスス座が見えた。私はもう一度空を見渡すと自分のあるべき場所に向かって歩き出した。

例年より遅く色を変え始めた楓の葉が月明かりに照らされた水面に映っていた。



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