味のある文章

こんばんは。
お世話になっておりせんけどもネオ香川です。

どうもどうも、仕事が始まりましたよ。
社会の一員ですよ。
疲れたわぼけぇ。


【寄り道的文章】

さて、今回は表題の通りですね。
「味のある文章」
って素敵ですよね。
先月ぐらいまでだったっけかな、
お笑い芸人の“金属バット 友保”氏が日銭稼ぎにnoteに降臨してたんですよ。
ひっそりファン?な私は記事を発見した時にその場で小躍り(文章上の過剰表現)しました。

そんで友保氏の記事ですが、飛んでもない作品でして…
文章表現の癖が大好きな私が久し振りにテンション上がりましたねぇ。
なんじゃありゃ、バケモンやないかい、と。

しかしまあ残念ながら現在は本人によって記事が削除されており、もうお目にかかることはないのですがね…
あ、でも友保氏のTwitterでの投稿から何となく察することができると思います。
そんなものを紹介するなって思われた方もおられるでしょうが、紹介のつもりで紹介したわけじゃないんですよ。
あくまで話を始める最初のクッションってやつです。

はい、
すみません。

とにかく読者の皆様もわざわざこんなど素人のくそ記事なんぞ読まれているということは、面白い記事に飢えているかよっぽど暇なのか、そうでなければなんなのか。
とにかく今回は「味のある文章」について考えていきたいと思うのです。


【文章における“味”の所在について】

考えや感情などを誰かに伝える、コミュニケーションのツールとしての言語ではありますけども、お喋りという肺やら口やらを使ったものがありますよね。
私もよく使うツールでございます。
その他にも色々とコミュニケーションのツールってのがあると思います。
今回は文字、そして文章を用いたコミュニケーションのツールについてです。
私は文章、というものが好きででしてね、なんというかちょっと味のある文章が好きなんですよ。
先ほど取り上げました友保氏の文章なんてまさにそれ、完全にツボってやつでした。

で、この文章の味ってやつは何で構成されて味となって感じることになるのかと、ふと疑問に思ったんですよ。
例えば今回は文章の癖に味を感じたんですけども。
じゃあ癖があればもうそれは味なのか、というとさすがに大雑把すぎるといいますか、とにかくそれが詳細な答えではない気がするんですよ。

癖だけに特化して考えると、難解な文章を書けば確かに癖があります。
しかし私はそれだけではその文章に対して味を感じないわけです。
ふむ、味は一体何処…。

友保氏の文章は確かに味を感じました。
その文章は基本的に友保氏の“口語”をそのまま文章に落としこんだような構成でした。
しかも氏の口語、いわゆる口調ですが、こってこての関西弁浪花節って感じでしてね。
そいつは本来文章として向いていないんですよ。
いやまあ、ブログなどではむしろ良いのか。
とにかくこの辺に味の存在を感じるのです。


【人間“味”】

人間味という言葉がありますよね。
こう、ああ、人間らしいなぁって瞬間に出てくる表現かと思うのですが。
理性的な文章にはある種の冷たさを感じます(私は)。
一方で情緒的、というよりなんでしょう、へりくだらないというか歯に衣着せない、装飾を施さない感じに温かみを感じたりします(私は)。
勿論例外もありますが、話の流れとして読み取ってくださいな。

“人間味”という言葉からもわかる通り、人間というものに我々は“味”を感じているわけです。
理性的な部分を持ち合わせつつも、理屈のみでは上手くいかないそのある種道理というか不条理なものに対する本音の部分、上手くいかなくて当然という、言い方が不適切な気もしなくもないですが人間のダメな部分ですね。
人間味には道徳や倫理のような規範から生じた不定形な溜息のようなものが、今の私が感覚的に感じる“味”なのだと思います。

例えば文章を書く際の規範としての書き言葉、その規範から外れた口語を用いて感情や考えを吐露する友保氏の文章に感じた“人間味”。
私たち人間は、無自覚のうちに規範通りでない部分にこそ“人間味”を感じているのではないでしょうか。


【おわりに】

今回もなんだかちょっと飛躍の多い記事になってしまいました。
私の力不足によるものですね。
もっと勉強して世の中の気になることを読者皆様と共有していければなと思います。
少しばかり贅沢を言うと、一緒に思考を巡らせていければなと思います。
私の師(哲学教授)であるY氏は「哲学とは考えること」であると述べています。
どうせ民主化の進んだ日本です。
自由やら規範やらに翻弄されている昨今ではございますが、思考ぐらいは自分の思うままにやっていきましょう。

ね。
あざした~。

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