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留学日記#75 24.3.15.

 文章を書きたくない。筆が進まない。それでも書く。

 前日のシーシャが散らかっていて、その片付けが億劫だった。片付けないと作業できないのに片付ける気が起きないものだからずっとベットに突っ伏していた。それでもたくさんの人から連絡が来たり、キッチンに行くたびに誰かしらとすれ違ったり、はたまた突然部屋に人が来たりもする。寮という生活空間は本当ににぎやかな場所だと思う。一人暮らしをしている頃だったら一日中寝転がって誰とも話さずに眠っていたはずだ。日本にいる大学の同期と少しだけLINEした。卒業論文で賞を取ったらしいという噂を耳にしていた。データを送ってもらった。読んで完成度に打ちひしがれた。僕が卒論を書くのは来年。マゾッホ紹介で書く。そろそろ大きな問いくらい立てようかしら。本書では宙吊りやら期待やら魅力的な概念が散らばり交錯し、マゾヒズムという星座を織り成しているわけだが、その構造を解きほぐすのは当然として僕の最たる感心は結局は臨床と批評とのすれ違いにあると言えよう。サドとマゾッホは根本的に位相を異にする。ドゥルーズはそう繰り返す。しかし彼の言う「マゾヒズム」とは単に「マゾッホ主義」を指すだけなのではないか? 現代のSMシーンにおいては、ふつうサディストとマゾヒストとが互いに同意を取り合うところから事は始まる。マゾヒズムをサディズムから剥離することはサディストの主体性を剥奪することになりかねない。この視点を経由して文学に回帰すると、マゾッホはマゾヒストを描いてばかりいて、鞭を振るう女性に一切を語らせていないことに気が付く。ドゥルーズによればマゾヒストは傲慢である。マゾヒストはケアを欠いている。この言説に、ドゥルーズとマゾッホとの共犯関係がある。マゾッホはワンダというもう一つの声を隠蔽している。ドゥルーズはマゾヒズムをサディズムから剥離することで、その工作にこっそりと加担している。今後マゾッホ紹介を読むときは、常に二人の共犯関係を疑ってかかることにしよう。無論ドゥルーズの理論には強度がある。彼に真っ向から対峙する気はない。僕にできるのは高々、ドゥルーズの批評と臨床の位置関係をずらして整理することだけだ。それすらとても難しいのだけど。

全く関係のない、前日に行ったカフェ

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