留学日記#43 24.2.6.
僕は去年の九月から今年の六月まで、つまり二学期ぶんの期間の留学を予定しているが、中には一学期だけで帰国する学生もいる。中休みにあたるこの時期、寮の学生が次々と入れ替わっている。今日はほとんどグループみたいになって仲良くしていた日本人を送り出した。
七人で部屋で飲んだ。別れを目前にして皆少ししんみりしていて、普段は話さないようなことも話した。本当はこんなに日本人とつるむつもりじゃなかったと、多かれ少なかれ皆思っているようだった。僕もそもそもここまでたくさん日本人がいるとは想像していなかった。ただし留学に対して目的意識や成長意欲は特にないし、現況に不満を感じたことはない。
朝の四時まで飲んでそのまま七人で空港まで行った。眠気も相まってか、はしゃいだり黙りこくったり皆情緒がおかしかった。いざゲートで背中を見送る段となって、急に寂しくなってきて、ハグさせてもらった。皆でハグして回った。帰りの電車でその子が一人一人に残してくれた手紙を読んだ。そのときにはどうしてか頭がすっきりとしていた。
寂しさについて考える。留学も折り返しにあたる今、出国のときから数えていくつもの小さな別れを経てきた。僕は他人への執着が人よりも強い方だし、情にも厚い方だと思うが、日本の友人を見納めるときは意外にもそこまで寂しくなかった。一方、さらに意外なことに、スイスで出会った人を見送る瞬間にははるかに強い寂しさを感じるのだった。
見送られることより見送ることのほうがずっと寂しい。環境が変わると何かを無くした痕跡を見つけづらくなるからだ。寂しさとは喪失に気づくことではない。それは不在の予感である。あるいは今までその人が占めていたはずの位置に、影を見出してしまったときの静かさ。だから寂しさはいつもつかの間である。喪失を思い出すやいなや寂しさは現実の中に溶け込んでいく。そして忘れたころになってまた、不意を打つようにふわりと芽吹く。寂しさほど感情らしい感情はないと思う。
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