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最大のライバルは効率化と人工知能。AIチャットで葬儀ナレーションを作る日は来るのか。

「人が人と向き合う最後のシーンを、私もまた人として創造したいんです」
これは、先日ひとつ前の記事の更新を知らせるツイートに付けた文言。

前記事にも書きましたが、現在約200件の葬儀に、司会者として向き合ってきました。そのうちナレーションを作ったのは170件ほど。つまり、170家族の取材を行ったということ。これは、取材ライターとして考えると、わりとみっちり書いている状況じゃないかなと思います。

さて、今回の記事で何が言いたいのかというと、タイトルと冒頭の1行に関連していくのですが、要はその文章を書くのが、人の頭なのか、機械の頭なのかということ。

まだまだ、受け持ち200件の駆け出しではありますが、今、日々強く感じていることは

人が人を送るからこそ、葬儀は儀式であり、告別式は式典である

ということ。

家族の数だけ、家族のかたちがあり、人の数だけ、人生があり。
どちらも、ひとつとして同じものがないのが、お葬式の現場なのです。

同じ人生はない、というのは想像がつくと思うのですが、家族のかたち、というのがちょっと抽象的かなと思います。
例えばざっくり言えば、婚姻関係や内縁関係、実の親育ての親、そして仲が良い悪いなどなど。。。←中には、顔を見れば恨み言しか出てこないのにナレーションは入れる、というご家族もあるのです。

実際、我が家もそうだったのですが「複雑な家庭環境」というのは割と頻繁に存在しますし、その複雑さの内容もさまざま。そして、それが表面にくっきりと現れるのが、葬儀という、人の大きな節目だったりします。

ただ、どんな事情を抱えていても、故人の旅立ちの日に立ち会うために「人」が集まる以上、そこには何らかの愛情が存在し、多くの場合、涙が流れるものなのです。

長くなりました。

人の心は複雑で、だから人と人の関係も複雑。行間を読む、なんて言葉がありますが、身近な人を亡くした悲しみの中にいるご家族に、故人についてお話を伺う、というのは、まさに行間だらけの取材となります。

名前、年齢、職業、趣味など、条件を打ち込めば、今現在でも、数秒である程度の文章ができてしまう時代がきました。人件費削減や効率化のために、葬儀ナレーション専用のアプリが開発されることもあるかもしれません。私が知らないだけでもう開発されてるかもしれないですし。

でも、そんな行間だらけの取材を経て、人間の頭で作るナレーションは、まだもう少し、機械の頭には追いつけない、何かがあるように思っています。

どれくらい追いつけないかな、というのは、最近、仕事を終えて帰宅してから、その日自分が実務で作ったナレーション原稿のキーワードをAIチャットで入力してみて、どの程度の文章ができるかを見てみたりしています。ライバルの状況は、とりあえずは探っておかねば、ですね。笑

ちなみに「葬儀ナレーションを考えてください」の問いへの、ChatGPTの答えは以下↓

結構、使えそうですよね。
もっと細かく条件を入力すれば、なかなかの文章が返ってきたりして焦ります。笑笑

逆に言えば、箇条書きの条件入力で賄う、誰にでも当てはまるような当たり障りない文章ではなく、人間らしいやり取り(取材)と、そこから湧き出す生の言葉を紡ぎ、五感をくすぐり、思いを揺り起こす当たり触りある表現を考えるのが、私たちの仕事の存在意義なのかな、ということが見えてきますね。

まだまだ負けないぞー😤

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