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精神障害者という言葉に惑わされるな
私は、不安障害と診断されている。
前回の記事にも、チラッと書いたが、最近は「障がい」という大きな枠に自分を入れて見るのではなく、「障がいは私の一部分」というように、自分を見るようになった。
「精神障害者の私」ではなく「私には精神疾患がある」というように考えるのだ。
そうやって考えると、「精神障害者だから◯◯なんだ」という、自分に対する偏見もなくなるし、自分に対する偏見がなくなると、他人に対する偏見も無くなると思う。
具体的にいうと、「精神疾患がある私は、子どもを望んではいけないのか?」と、ついさっきまで考えていた。
気を抜くと、精神障害者という大きな枠のなかに、自分を入れてしまう。
だから、この記事は、自分に対する戒めの気持ちを込めて書いている。
私はたしかに、不安障害と診断されていて、症状もあるし、生活のなかで苦しいことはある。
薬を飲まないと、睡眠もうまく取れない。
飲んでいても、うまく眠れない日もある。
それは事実としてある。
けれど、「精神障害者」という大きな枠に、自分をはめ込むには無理がある。ということに気がついた。
仮に誰かが、「精神障害者だって、子どもを産んでいい」と言ったとしても、金銭面や環境面、パートナーとの関係性がよいものでなければ、スムーズにはいかないだろうし、健常者だとしても、それは同じだ。
結論、人それぞれなのである。
だから、自分を何かの枠にはめて、物事を考えるのには無理があるのだ。
精神障害者は恋愛がうまくいかないという人がいるけれど、今の私は、相性の合う人と出会うことができて、パートナーと仲良く過ごせているし、むしろ恋愛によって、自己成長したり、よい方向へ変化できていると思う。
(ただ、楽にそうなれたわけではない。どんなに相性がよかろうと、所詮は他人なので、一緒に過ごすには様々な努力や工夫などが必要だ)
人生では、ときに何かを判断しなくてはいけない場面があるが、それは「ここぞ!」というときだけでいい。
それ以外は、判断しなくていいことが大半なのだ。
「精神障害者は子どもを産んではいけないのか?いいのか?」ということも、人による。なので、決めなくていいこと。
というか、そんなことは、判断して決めつける権利は、誰にもないと思う。
そんなことは、判断する必要も価値もないのだ。
「自分はどうなのか?」
判断するとしたら、それだけだ。
自分にできるのか?
自分はどうしたいのか?
自分はどう生きたいのか?
自分で決める。
私はこれまでも、自分で考えて、自分で決めて生きてきた。
だから、自分の人生に後悔はしていない。
その分、自分の尻拭いは自分でするしかない。
自分の人生には、自分で責任を持つ。
これまで、自分らしさがよくわからなかった。
一見おとなしそうに見られることが多くて、それが嫌だった。
明るくて元気な人になりたいと思っていた。
でも今は、明るくなくても「私は私でいい」と思っている。
ここ数日、そう思っている。
いろんなことを考えたり、行動したり、試行錯誤して生きていると、ふと、そんなふうに思える日がくるものなんだなぁと思った。
私らしくいられることが心地いい。
無理しなくていい。
4月から「自分癒し活動」をしたのも、よかった気がする。
自分のベストを尽くす。
人間には人間ができることの限界があるし、人それぞれ、できることの限界がある。だから、自分のベストを尽くすことしかできない。
でも、だからこそ、それができると、とても気持ちがいい。
達成感があるし、幸せな気持ちになる。
自分らしく生きる。
自分のベストを尽くす。
たとえ、私の精神疾患が治っても治らなくても、それは変わらない。
「障がい者の私」ではなく、ただの「私」として生きること。
ただの「私」として生きることができる環境に身を置くこと。
それが、今の私にとって、とても大切なことだと思った。
ねねこ
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