「無意識ー空の章ー」#6 ハリネズミ
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雨がだんだん強くなってきました‥‥‥‥。
「傘持ってきました?」
カウンターから大きなガラスの外をボーっと眺めながら俺が聞くと
横で夏井さんが
「いや、僕は車だから傘要らないんだ」
涼しい顔で答える。
聞く相手を間違えた。つい間が持たなくて思い付きで喋っちゃった。
本気で心配してたわけでもないのに。
「空君は大丈夫?帰りは原チャリでしょ」
「大丈夫ですよ。傘はあるから」
「え、まさか原チャリで傘さし運転?」
わかってますよ。わざとですよわざと!
「夏井さん、面白くないですよ」
「どっちが。って言うより、まだ動揺してるんじゃないの」
「何が」
「何がって、忘れたの?」
「ああ、財布か」
せっかく忘れてたのに。
嫌なことを思い出して再び憂鬱になった直後、階段の下から足音が聞こえた。
いったい何が上ってくるのだろうと思うぐらい、その足音はヘンなリズムを刻んでいる。
やがて姿を現したそいつは、学生服に馬鹿でかいリュックを背負い、耳にはヘッドフォン、髪の毛はハリネズミみたいにツンツンはねていた。
「また、音楽に合わせて階段上ってたでしょ」
夏井さんが話しかける。どうやら知り合いらしい。
「螺旋階段だとコケそうになりますね。目も回るし」
やたら黒目がちの、ぱっちりした目がキョロキョロ動く。
その目が回ったらさぞかし大変なんだろうねえ…と俺がつまらない心配をしているのも知らず、濡れネズミのような(よく見たら雨に濡れてハリがちょっと重そうだから)そいつは、行って来たばかりの自動車学校の話を夏井さんと始めた。
「路上初日だったんすよ。最初順調だったんすけど、途中から雨降ってきて…」
「あーそうだよね」
「しかもだんだん暗くなって、ライトつけたら路面が反射して、さすがにおっかなかったー!」
と言っても、ジェットコースターから降りてきた中学生が、そのスリルを自慢げに話す時の表情。
「いきなり最悪の条件だったんだ。でもはじめにそれを経験しておけば楽だと思うよ」
「あ、やっぱそうか。でも俺、今日の最後の方ではコツ掴みましたよ、何か」
「じゃあ、もう大丈夫じゃん」
夏井さんがそいつと話し込んで全く仕事をしないので、真面目なボクはその間、返却と貸出あわせて五、六人接客。それが終わる頃、濡れネズミはCDを選びにフロアを歩き出した。
足音が不規則なのは平面でも一緒。
「変わった歩き方ですね」
俺が夏井さんに小声で言うと
「でしょ。昔っからそうなんだよね、あいつ」
「そんなに前から知ってるんですか」
「うん。年は四つちがいだけど、家が近所だから結構遊んでて」
幼なじみ。
「前の日にテレビで流れた曲だとか、その日音楽の授業で聴いたモーツァルトだとか言ってさ、耳に残ってる音やリズムに合わせて歩くの。日によって歩幅も速度も違ってたよ」
ふ〜ん、ヘンなやつもいたもんだ。
でも、ヘンなところがあんまりバレていない。俺みたいに注意を払っているか、幼なじみでもない限り、たぶん誰も気付かない。
周りの客も振り返って見たりしてないし。
「見事に溶け込んでますね。あんなにヘンなのに」
「まず本人があんまり意識してないから」
なるほど、と思いながら、しばらくその転びそうで転ばない足音をボーっと聞いていた。
不思議なことに、これを聞くのが初めてではない気がする。少し前に、別な誰かがこんな足音を立てていた。そんなに何人もいるとは思えないけど。
聞いたとしたら、場所は間違いなくここ。
硬い木の床を引きずったり小刻みに叩きつけたり、一瞬止まったり、そんなんでよく進むよね…って、思ったような。
誰だっけ。
人がアホ面で考えている間に戻ってきたハリネズミが(←乾いてきたので、濡れネズミから戻しました)カウンターにCDを積み上げて、ニカっと笑った。
「これ下さい」
「あの、うちレンタルショップなんで…」
「わかってますよ。わざとですよわざと!」
初対面で何絡んでんの?
それとどこで身に付けたの?その人懐こい笑顔は。
つぶらな瞳がホント「ネズミ」みてぇ。こういうことを言うと、夏井さんはきっと「ネズミの瞳なんてちゃんと見たことあるの?」とか返してくるだろうけど。
「今日は随分たくさん借りるんだね」
さっきから全然仕事をしていない夏井さんがちゃんと横から混ざってくる。
「ミスチル入荷してたし。昨日レンタル中だったのも戻って来てたし。それに今日いつもより金持ちなんですよ、俺」
「臨時収入?いいなあ。ね、いいねぇ、空君」
ボクに言わなくてもいいですよーだ。無視して話題変えよう。
「ミスチルって何?」
「あれ、空君ミスチル知らないの」
↑話題を変えても、結局は俺をからかい続ける夏井さん。
「あ、でも俺も最近知ったんすけど。アルバムもまだ2作目だし」
↑そして、実はいい人かもしれないハリネズミ君↓(歩き方はヘンだけど)。
「東野さんも、俺が返した後聴いてみたらどうです?おススメですよ」
どっちが店員なのか分からなくなってきたな。
いや待てよ。俺、今「東野さん」って呼ばれた?
「俺、名前言いましたっけ」
「言ったでしょう。俺、今日金持ちだって」
「いや、そうじゃなくて」
話も聞かずにハリネズミはリュックから財布をふたつ取り出す。
そのうちのひとつは、失くした俺の財布とよく似た感じの…
俺の財布だった。
「今日、駅で財布拾っちゃったんですよ。どうしましょうね、これ」
どこかで一度聞いたようなセリフを吐きながら、例によってニカっと笑う。
はじめから財布を失くした張本人がここにいるのを知ってたんだ。
おそらくは(どこかの店長みたいに)中から見慣れた会員証を見つけ出して「東野空って、夏井さんのバイト先で一緒の、あの空君?」って気が付いて、それでフレンドシップに直行してくれたってとこかな。
「…財布を拾ったら交番に届けるって、昔から決まってるはずですけど」
いちおう冷静に答えてみたけど、ホッとして声が上ずってしまう。
「でも、近頃ちゃんと届ける人は減って来てるってウワサですからねえ」
まあ、それで助かったの俺だけど。
もういいや。嬉しくてどうでもよくなってきた。
ユウウツから解放されるってこんなだよね(何回もあるけど)。
顔が溶けるんじゃないかと思うぐらい、緩んで力が入らなくなるんだよなあ。
「よかったね。今回も見つかって」
そんな夏井さんの言葉もただ優しく響く。
多少のことなら怒んないよ。今のボクなら。
外の雨がますます強くなっていた。
他に客も来なくなったので、カウンターに頬杖をついたまま、三人でしばらくどうでもいいことを話した。
相変わらず夏井さんは俺のあげ足を取り、ハリネズミはのらりくらりと器用に相槌を打ち、俺は中身の薄い財布が見つかったぐらいではしゃいで喋りすぎた。
思った通り、ハリネズミは日頃から俺の噂を夏井さんから聞かされていたらしい。
「たしか先週もファミレスに財布忘れたって聞いてたんで、ピンと来ました」
ピンと来てくれてありがとう。
交番じゃなくこっちに来てくれてありがとう。
「空君、僕にも感謝した方がいいんじゃない?僕が‘海’にいろいろ話していたから、こうして今回も助かったわけだし」
はいはい。
それにしても、よく降るなあ。帰り、ホントにどうするかな。
「まあそれにしても、‘海’が拾ってくれたっていうのがすごい偶然だけどね」
「海って?」
「東野さん、話の流れで俺のことだって分かるでしょ」
「海って、名前だったの」
カウンターに置いたままの会員証を見る。
あ、ホントだ。‘南田海’
「ミナミダウミ? ミ…ナミダウミ。涙の海みたい。おもしれー名前」
「変なところで切らないでください。恩人のボクにそんな感じで来ます?」
怒るとやっぱりハリネズミみたい。
こういうことを言ってると夏井さんは「ハリネズミが怒ってるところ見たの?」って半笑いで言うんだろうけど!
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