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禍話リライト「マヨヒガの山」

遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガと云ふ。マヨヒガに行き当りたる者は、必ず其家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でゝ来べきものなり。其人に授けんが為にかゝる家をば見する也。

柳田國男『遠野物語』六三 より

 
〈マヨヒガ〉ーー迷い家、と呼ばれる怪異をご存知だろうか。
 それは山中にて不意に出くわす立派な屋敷で、室内にはついさっきまで誰かいたような気配はあるものの、無人であるという。いわゆる「隠れ里」の類とはこの点で異なっている。
 無欲にそのまま屋敷を後にすると後日福があるとも、何かしら屋敷から持ち出すとそれを機に福が訪れるとも言うようで、先に引用した柳田國男の紹介によって知られるようになったものだ。
 ……しかし、〈マヨヒガ〉がそのように善なるものばかりであるという保証はあるのだろうか?
 いずれも福を得た人間の体験が伝わっているだけで、本当は人に悪をなす〈マヨヒガ〉があるとしたら? 
 それに惑わされた人間は、皆それを伝える術を持たないだけなのだとしたら?
 けれどーー否、だからこそーー確かなことは何も言うことができない。ただ「其人に授けんが為にかゝる家をば見する也」という柳田の言は、どことなく禍福に預かる対象を選別する何者かの眼差しを感じさせはしないだろうか。

 これは、そんな〈マヨヒガ〉の影を感じさせる話である。

 

 戦前の話だという。

 まず「周囲を山に囲まれた、田舎の村」を想像してみてほしい。そうして思い浮かんだような山村での話だと考えていただければよい。
 村の名士の家には三人の子どもがいた、という。そのうちの次男坊は生来病弱な性質だった。古い時代のことだ。家を継ぐ長男は元気だから大丈夫だ、次男はゆっくり身体を治しながら、ゆくゆく長男を支えてくれればそれでよい......周囲の人々はそんな態度を取っていた。本人もそれに異を唱えるでもなく、安らかに日々を過ごしていた。
 次男坊が十代中ごろに差し掛かろうかという時――今でいう中学生くらいの頃だろう――異変は起きた。最初にそれに気付いたのは屋敷の使用人たちだった。夜、縁側や勝手口の戸を開けてぼんやりと佇む次男坊に遭遇するようになったのだという。その視線は何を見るともなく夜闇の中に注がれていて、何の感情の色もない。
「坊ちゃん、何してらっしゃるんですか」
 そんな言葉をかけると、決まって彼は決まり悪そうな――元の話の表現を借りるならば、「立ち小便を見咎められたような」――顔をして、その場を立ち去ってしまうのだった。改めて彼が視線を注いでいた先を確認しても、何もない。あるのは裏山くらいのものである。
 ひょっとすると夢遊病の類ではないか、という話になったあたりにも時代を感じるのだが、ともかく使用人たちの間でそんな話題が持ち上がった。すると、私も見た、俺も見た、という人間がちらほらと現れた。次男坊を目撃した場所こそ違うが、共通しているのは、その視線の先には裏山があった、ということだった。逢引きというわけでもなかろうし、と皆で首をかしげていたそうだ。
 次男坊のささやかな奇行はその後も続いた。縁側から外を見ている分にはまだよかった。しかし日を追うごとに、彼が佇む場所は屋敷の外へ外へと向かっていった。仕舞いには広い屋敷の敷地外にまで出て、道の上からぼんやりと裏山を眺めていたというから尋常ではない。
 つまるところ、だんだん山へと近づいていたのでは――、などと考えられるのは、当事者でない我々の視点だからこそだろう。当時はただ、周囲の誰もが、次男坊はどうしてしまったのだろうね、と思うばかりだった。

 そんな次男坊が姿を消したのは、ある日の朝早くのことだった。
 その日いつも通りに起き出してきた彼は、いつも通りに朝餉の膳に向かい、やがていつも通りに箸を置いた。そして、
「友達と約束があるので、少し出かけてまいります」
と家族に告げた。休日のことで、誰も違和感を持たずに彼を送り出した。そして、それきり戻らない。警察はもちろん、近所の人々も集まって大変な騒ぎになった。
 このところの奇妙なふるまいのこともあり、自然と裏山を探そう、ということになった。こういうときに村の権力者の日頃の行いが出るものだが、村人は総出で山に踏み入り、次男坊の名前を呼んで探し歩いてくれた。しかし、人が立ち入るような範囲を念には念を入れて捜索したにもかかわらず、次男坊本人はおろか少しの手がかりさえ得ることができなかったそうだ。
 そうなると、残すところはもう獣だけが行き交うような山の奥深い場所だけになる。そんな獣と遭遇する危険や、どんな様子かも分からない場所に立ち入る危険を踏まえて、村の猟師たちが山奥へと分け入っていった。とはいえ、満足な照明設備もない時代のことだ。陽が落ちる前に捜索は断念せざるを得ない。それが五、六日も続くと、流石に人々の間にもうっすらとした諦めの空気が漂い始める……そんなある日のことだ。

 山の奥地を捜索する猟師たちの中に、とりわけ山をよく知る猟師がいた。その日も彼は率先して深い場所へと向かっていった――筈だったのだが、日が暮れる時分になっても戻らないのである。初めこそ、
「熱心に探してくれてありがたいねえ」
などと言っていた猟師仲間も、辺りが薄闇に包まれる頃には皆不安を口にし始めた。いわゆる二次遭難の可能性は、ありすぎる程にあった。
 と、斜面に生い茂る藪の中を猛然と駆け下りてくる者がある。すわ熊か、いや猪か、と身構えた人々の前に転がり出てきたのは、件の猟師だった。見れば紙のような色をした顔面や手など、素肌の見えるところは全て枝やら何やらで傷ついて血だらけになっている。
「みんな下りろッ……! 山から下りろッ! 早くこの山から出ろッ!」
 肩で息をしながら、彼はそんな言葉を絞り出した。顔を見合わせた一同ではあったが、ともかくも彼に肩を貸すと、逃げるように山を後にした。

 猟師は屋敷へと担ぎ込まれた。しかし、あれこれ介抱してもなかなか正気が戻らない。鬼気迫った表情のまま、「山から下りろ」「山から出ろ」と呟き続けている。ふと見ると、血の気がなくなるほど力の入った拳に、何か布切れらしいものを握り締めていた。もう片方の手に茶碗を持たせてみるが、がたがたと震えていて飲むことも儘ならない。そしてなおも猟師はあらぬ場所を見ながらぶつぶつと同じ言葉を繰り返している。
 一座に、その猟師と特に仲のいい友人がいた。気難しいところのある猟師とも打ち解けられる持ち前の穏やかさで、この時も根気強く声をかけ続けていた。
「なあおい、どうしちまったんだよ、え? な、ほら、落ち着いて。なあ?」
 そんな言葉が混乱を解きほぐしたらしく、ふ、と猟師の緊張の糸が緩んだ。
「あ、ああ、あんたか……」
 今まさに友人の存在に気付いたふうだった。
「ああ、駄目だ、駄目だ、早く山から下りにゃ、」
「大丈夫だよ、ここはもう麓の屋敷だ。山じゃあない。ほら水飲みな」
 そう言って茶碗を持たせる。
「ほら、この握ってる布切れも離してさ」
「あ? ああ!? うわあ!!」
 自分の手の中にあるものを認識した瞬間、再び猟師の目を恐怖が満たしていた。悲鳴を上げ、茶碗も取り落とし、布切れを投げ捨てようと腕を振り回す。しかしあまりにも握りこぶしが強張ってしまって簡単には開いてくれない。人々は恐慌に陥った彼を宥めすかしながら拳を撫でさすり、指の一本一本を揉みほぐし、ほどくように開かせていった。
 手の内から現れたくしゃくしゃの布切れは、大方の人々にとってはただの布切れだった。が、ただ一人、
「それは、」
と悲痛な声を上げた者がいた――失踪した次男坊の母親だった。彼女は、それは息子の着物の片袖だ、間違いない、と震える言葉を絞り出した。
「どこにあった」
「見つけたのはこれだけか」
と言葉が飛ぶ。しかし、猟師はまた「山から出ろ」と繰り返し呟くだけの状態へと戻ってしまっている。これは落ち着くのを待つしかない、ということになった。
 やっと猟師が落ち着きを見せたのは、それから二、三時間は経った頃だった。それでもまだ不安定な様子なのを見て、件の友人がこう言った。
「こりゃどうも大人数でかかるとよくないな。俺が一対一で聞き出してみるから、ちょっと外しといてくれないか」
 そうして次の間に控えた人々は、ぼそぼそと聞き取れない猟師の声と、うん、うん、という根気強い相槌を聞いていた。
 しばらくして、彼らの前に姿を見せた猟師の友人は酷くげっそりとした顔をしていた。それでそれで、と勢い込む一座の人々を制し、いやあ、と頭を掻く。
「その、何だ……そんなことあったかねえ……」
 そのまま、苦虫を噛み潰したような顔を向けることもせず、指である方向を示す。
「天狗や何かが出る、って話は……ありましたかねえ……?」
 彼の指は裏山のほうを指していた。

 猟師が話したのは次のような内容だった。
 その日、随分と山の奥まで分け入った猟師は、とうとう獣道すらないような場所にまでたどり着いてしまったのだという。まだ十いくつの子どもがここまで来るとも思えず、現に何の痕跡もない。今日はここまでにして戻ろう、と踵を返して、四、五歩ほど進んだその時だった。
「もし、」
と涼やかな声を掛けられた。
 えっ、と振り返る。もちろん先ほどまで誰もいなかったのは確認済みだ。獣道も絶えたような藪の中で、急に人が出てこられるわけもない――はずだった。
 視線の先に、きちんとした身なりの女が立っていた。外見にも物腰にも、客人の相手をするのに慣れたような丁重さと品のある女が、胸の前に何かを捧げ持っている。どんどん濃さを増す夕闇を背景に、女だけが浮き出たようにはっきりと異質だった。
 何だ、何だこれは、と思考が混乱する。あまりの異常に、毛穴という毛穴から汗が噴き出す。そんな猟師に構うことなく、女は静かに言った。
「お召し物をお返しに参りました」
と、手の中のものをこちらへ差し出す。見れば、きちんと畳まれた若者向けの着物だ。猟師は震える手でそれを受け取った。
 瞬間、大声で叫び出したいような気持ちになった。その着物に異常があったわけではない。ただ、よくないものを受け取ってしまった、という、それが猛烈に恐ろしかった。
「それでは、よろしくお願い申し上げます」
 す、とすり足で一歩退いた先は藪だ。それなのにがさりという音ひとつも立てることもなく、女の姿は掻き消えていた。手渡された着物に意識が向いた瞬間のことではあったが、確実に消えた。
 猟師は叫びながら山を駆け下りた。渡された着物のことなど知ったことではなかったから、どこかで引っかけたか何かして拳に握った片袖しか残らなかったのだろう。
 
 そういうわけで山を出ろ、と言い続けているらしい。
「あいつの様子を見てると嘘を言ってるとも思えんでしょう。もちろん酒が入ってるわけもなし、元々身体も心も強い人間だから、幻を見たってのもねえ......」
 皆言葉を失った。天狗が出るなど聞いたこともない。さらに人が目の前で掻き消えるなど信じがたい。けれど、猟師の錯乱した様子は到底偽りとは思えない……

 結局、翌日は誰も山に登らなかった。けれど翌々日に決死隊となる覚悟をした人々が山に入り、失われていた次男坊の着物を持って下山した、という。改めて家族が見たところ、片袖のないその着物は次男坊のもので間違いない、ということになった。
 どうやら件の猟師は早い段階で着物を手放していたらしく、ちぎれた片袖を除けばまだいくらかの折り目正しさが残っていた。きちんと洗われ、しっかりと糊もされたその着物は、まだ洗濯石鹸のよい香りまで残っている有様だった。
 結局次男坊は見つからなかった。これはもう駄目だろう、ということになって、遺品となった着物も屋敷の庭で焼かれたそうだ。
「これはもう駄目だ」と確信させるだけの何かが屋敷の一家に起きたことは確からしい。ただ、それが何だったのかは家の外には漏れてこなかった、という。

 猟師が出会った女の佇まいについて聞いていて、ふと宿屋――というよりは旅館の仲居や女将のそれが思い浮かんだ。人を迎え、饗す者の整然とした姿が。だからこそ、万端に人を待ち構え、迎え入れ、善しにつけ悪しにつけ何かを与える〈マヨヒガ〉の影が、そこに棲まう何者かの眼差しが、女の背後にある山の風景に透けてならないのだ。

 その山は別段登るのが難しい山でもないから、今では散歩道も整備されて人が立ち入ったりもするという。ただ、ある地点から上は厳重に封鎖されているという話だ。

 山の所在を明かすことはできない。
 ただ、東か西かでいえば西、ということだけを記しておく。


出典

禍話インフィニティ 第二十一夜 30:57頃〜

(ドントさんによるタイトル:「迷い家の山」)

※猟奇ユニットFEAR飯による著作権フリー&無料配信の怖い話ツイキャス「禍話」にて過去配信されたエピソードを、読み物として再構成させていただいたものです。

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