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不登校の記憶と記録#3


▼不登校中の生活について

前回書いた、ネット上での悪口を見つけてからは学校に行くことが本当に出来なくなり、この頃から母とのバトルもなくなっていきました。

私の様子を注意深く見ていてくれた母は
何も言わない私でもそれまでの対応とは違い、
何かを察してくれていたような気がします。



その頃は母や家族からも私が学校に行くことへ諦めを感じていました。
家族のその空気感は、行かなくても良い雰囲気に安心するとともに、それはそれで少し寂しく感じることもありました。
本当にわがままな相反する気持ちでしたね。


その後も私の様子を伺っていた両親が、担任の先生と話し合いをして、きっかけになりそうなタイミングで(学期のはじめや夏休み明けなどの節目)学校に通うチャレンジをしましたが、1日か半日耐えられれば良い方で登校できる日が一週間も続くことはありませんでした。


当時の気持ちとしては、人に対しての”怖い”という気持ちが一番大きかったように思います。


教室にいても、授業中も休み時間もクラスメイトの顔を見ることすらできませんでした。

心の中で私のことを笑っているんじゃないか、学校に来ることも出来ないかわいそうな子だと思われているんじゃないか…

と今思えばそれは杞憂だったと思えますが、当時はそんなことが頭をぐるぐるしていました。


目を見れずに会話をすることがほとんどで、目の前には私の想像上の意地悪な表情をしたクラスメイトの顔が浮かんでいました。




本格的に家にいる時間が長くなっていった時期は、仕事や学校に出かける家族がいなくなった時間に起き出して、リビングでテレビを小さな音でつけて過ごしていました。



正確には目は覚めていたけれど、朝慌ただしく出掛ける準備をしている家族に会うこともなんだか嫌で、玄関の扉が閉まる音を聞き、誰もいなくなって静かになった後にやっと部屋から出る生活をしていました。

起き出した頃にはとっくに朝とお昼ご飯兼用な時間になっているので、ストックしてあるカップラーメンを作り一人リビングで食べたり、母が仕事前に置いていってくれた朝ごはんをレンジで温めて食べました。

ただ、この事で家族との関係が悪くなったことはありませんでした。
朝の時間は顔を合わせることが出来なかったけれど、それ以外の時間に顔を合わせれば今までと変わらないくらいに会話があり、変わらず接してくれる家族。
それが当時の私にとってどれだけ救いだったか、計り知れません。


本を読むことが好きだった私は、日中の誰もいない時間は小説や漫画を読み耽っていました。


当時記憶に残っているのは青い鳥文庫の
「黒魔女さんが通る」シリーズ。
のめり込むようにして読んでは新刊が出るたびに一番に手に取って買ってもらっていました。

その当時の楽しみは、両親の仕事の休憩時間に本屋さんに連れて行ってもらうことでした。

同じぐらいの年齢の子がいない昼間の時間の本屋さんはなんだか自由な気持ちになった気がして、思うままに歩き回り、本を物色していました。


学校に連れて行く事を諦めた様子の両親でしたが、一緒に過ごす時間は私を見捨てる事なく普段通りに愛情たっぷりに関わってくれていたように思います。


当時はその両親の寄り添い方が本当に心の救いでした。

"普通のように" 学校に行くことが出来ない罪悪感を抱えていた私は両親の優しさに包まれていたことで、安心して家を居場所として捉える事が出来ていました。


不登校になってからも外部の習い事は続けていて前回の記事でもお話しした塾と、フィギュアスケートやFC岐阜のチアガールとしての練習だけは熱心に通っていました。

この頃から個人競技や魅せるスポーツが好きで人前で競技をしたり、踊ることは私の生きる楽しみであったと思います。




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相変わらず学校には通えませんでしたが、
家族以外の人との関わりが全く途切れる時期は少なかったように思います。


そんな生活が1年ほど続きました。
そんな時、(中学2年生の夏〜終わり頃?だったと記憶しています)

中学生向けのファッション雑誌に興味を持ち始めた私はモデルという仕事に憧れを抱き、その後両親に相談し、その雑誌で見つけたオーディションに応募しました。



モデルとしてではありませんでしたが芸能養成所のオーディションに合格し、中学3年生の頭から東京にその学校への入学を決めました。

毎週土曜日、始発の新幹線に乗り岐阜から東京に通いレッスンを受ける1年間が始まりました。


私は水を得た魚のように、みるみる心が元気になっていくのを感じていました。

シンプルに凄く凄く楽しかったのです。
新しい刺激がたくさんの東京に、夢を叶える為に頑張る養成所のクラスメイトたち。
その心躍る体験は当時の私には何にも変えられないものでした。

1年間もあって週1回だけとはいえ、一つの物事に休まずに通えたことは今でも母と語れば思い出すほど、奇跡のような事でした。

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その後、Sony musicに所属することとなり乃木坂46のオーディションを受けアイドルとして活動することとなりました。

私は迷わず東京にある芸能科の高校に進学を決めます。
学力も出席日数も足りないものが多く進学した先は日中に通うタイプの通信制高校でした。


ただ、一度登校を諦めた時点から中学卒業までのその期間は、中学校には復学することは出来なかったです。

当時の私には新しい道が見えたことで復学への必要性を見出すことが難しくなっていました。

とにかく環境を変えて、飛び出すことしか見えていませんでした。


岐阜で進学をする場合の候補にも、中学時代の知り合いがいないであろう家から少し遠い全日制の高校も視野に入れていましたが、最終的には東京に出るという選択をしました。


高校に進学してからは、通信制ということもあり毎日通う学校ではなかったので無理なく単位を取り卒業まで通う事が出来ました。

高校では卒業して11年経った今でも仲良くしているような友人も出来ました。
中学当時の私のことを考えると本当に想像も出来ない未来でした。

芸能活動との両立だったので、それも私には合っていたのかもしれません。



中学に復学することはなかったものの、私が比較的安定したメンタルで過ごせた事は本当に周りの環境に恵まれていたからだと思います。

自分が安心して過ごせる居場所があること(家と塾)

体を動かす時間があったこと(スケートとチアダンス)

目指すものができたこと(芸能活動)


この3つが大きな要素となり、生きる希望を見失わず過ごす事が出来たと思っています。




 "居場所がある" と感じられることは、多く場合に救いになるのではないかと感じています。

日中1人で過ごす時間はさみしくもありましたが、それ以上に心が休まる大切な時間でした。

養成所に通い始めてからの日中の時間帯は毎週出される課題を1人で練習する時間に当てて、好きなことに夢中になる楽しさを知りました。


学校という場は、教養をつける場であるとともに社会性を育てていく場でもあると、今では分かります。

その環境を放棄すると、やはり人間関係を育てていく難しさを感じることは多いのではないでしょうか。


私自身も、人との関係性を作ったり持続させていくことは苦手でしたが失敗も重ねながら、今は安定した人間関係を築く事が出来ています。

昔の自分が心配していたよりも、複雑さはなく、安心できる環境を作る事が叶っています。






次回はこの経験をして今思う事をまとめていきます!


2022年のうちにまとめられそうな記事はここまででした。
色々と思い出しながら考えながら更新しようと思っているとなかなか進まず…最後のまとめを2022年の間に書きたかったのですがまたゆっくり時間をとって、今の気持ちや経験して思うことを大事に綴っていきたいと思います。


最後までお読みいただき本当にありがとうございました!

皆さんも、
良いお年をお過ごしくださいね😌



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