【第15回】寝正月

 気づいたらもう三が日が過ぎていた。初詣に行っておらず、おみくじで今年の運勢を占っていない。まあ、きっと良いことだらけになるだろう。去年のおみくじの内容を全く覚えていない。当たっていたのかな。
 初詣に行かず、実家に帰らず、旅行もせず、おせちを作らず、親戚に会わず、お年玉をあげず、掃除をせず、テレビを見ず、おもちを食べず、私はひたすらベッドで横になっていた。小説を読んではねむり、起きては小説を読んでねむった。とはいえ、小説に夢中になっているとも言い難い。文章を読んで、書かれている物事を空想し、全身で物語に没入していく行為が小説を読むことの醍醐味だと思うが、私は一切物語の中へ入っていけなかった。文を目で追いかけて言葉を理解していても、頭の中に浮かぶのは、自分が次に書きたい小説の台詞や情景。あるいは、仕事の不安や悩み。または、恋人との逢瀬の想起。小説と関係ないそれらを頭から放り出して頑張って本を読み進めても、睡魔が私のまぶたを撫でてねむらせてしまった。

 本を読んでいる間に、内容とは関係ない思考が始まる。集中できていないだけかもしれない。でも、あながちそうとも言えない。
 本は常に我々に何かを伝えようとする。自己啓発本が一番わかりやすいだろうか。「今の君は間違っている。毎朝運動するとより良くなる」そう訴えかける本に我々は影響を受けて、毎朝運動をするようになる。本によって行動が変容させられる。小説だって同じことだ。物語を伝え、我々の内的活動(感情を喚起する、哲学的思考を促す)を活性化させるだけが小説の力ではない。文が在り、読む私がいる。読む私は小説中に「カエル」と言う言葉を見る。私は無意識レベルで「カエル」を自分の中から探り出して、無限に連なる過去の記憶から「カエル」にまつわる情報を表出させる。そして私の脳内では「雨の日に落とした桃色のハンカチ」が浮かんでいるのだ。全く自分の関与しないところで意識が働き、ひとりでいたら生まれなかったものを生まれさせる。私は文章から想像を働きかけられている。否応なしに想像をさせられてしまう。物語を理解することも重要あるが、このような自分を超えた想像を生むことも重要な効用のひとつである。この効用は小説に限らず、絵画や音楽からも得られるだろう。

 初夢は面白くなかった。仕事の夢だった。
 上司に客先で作業を頼まれると、私は余裕があると判断して朝10時開始なのに11時半まで喫茶店でぼーっとコーヒーを飲んでから来訪すると、客から想定していた作業よりも多くのタスクを頼まれる。今日中に終わらせてくれという無言の圧力を感じ、私は冷や汗をかく。1人では終わらない量だった。しかも私は朝の時間サボっていたので客のせいだけには出来ない。報告したら怒られるかもしれないという不安で、連絡が遅くなる。へらへらしながら上司に電話をする。「これこれと言われて、1人じゃ終わらないと思うんですけど誰か来ていただけますか?
 これでおしまい。ああ、嫌な夢だ。本当にありえそうだ。というか、昨年に似たような状況があったのだ。ああ。

 今年もたくさんねむりたい。同じくらい本を読みたい。想像力の翼を豊かにしたい。私の知らない私(しかし、それは私ではないだろう)に手を伸ばしたい。おやすみなさい。


清水優輝

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